2010年5月12日水曜日

無限の空間

 高一の僕が、由美ちゃんに渡したカセットテープ。
 タイトルは「吉井宏の世界」。書いてて恥ずかしい。
 由美ちゃんは聞いたことも覚えてないだろうな。
 
 アルバム「岡林信康の世界」を真似た。
 当時の代表作「無限の空間」。
 無意識に小野ヨーコのアルバム「無限の大宇宙」、
 これをもじったのかも知れない。

 「無限の空間」は小学生の頃から感じてた
 この世界に自分一人が存在していると言った
 孤独感やある種の虚無感を表した歌だった。
 その歌詞をここに書く勇気はない。

 そのテープを今でも持っている。
 怖いもの見たさで聞いてみたい気もする。
 
 清人とやったデュオ‘ミー&ケイ’。
 清人が好きだったPink Lady から名付けた。
 3年生のクラス企画ライブ喫茶でビートルズをやった。
 そのテープもある。清人のギターがいいので
 今聞いても恥ずかしくはない。

 昔描いた絵は、今見てもほおーーとか、なかなかだなーとか思う。
 多少下手だと思っても、今では描けないなと思う。

 歌や演奏、文章は聞き直したり、読み直したりしても
 絵のようにいいなあとは思えない。ちょっと酸っぱい感じ。
 しょっぱい感じか。恥ずかしい。
 でも止められない。

 昔の絵や、歌、文章や写真に触れると、
 今や幻影の中の風景を思い浮かべる。

 その中で僕は自転車で坂道を登ったり、
 50ccのバイクで海を目指して、峠を越えたりしている。
 冬の弱い陽射しの中で白いマスクをして笑ってた
 大島由美さんのことをごく希にだが、思い出したりする。

 「私の耳は貝の殻。海の響きを懐かしむ」コクトー

2010年5月6日木曜日

北方記念博物館

 宮大工だったご先祖様は代々「伝八」を名乗った。
 田舎では珍しくない「屋号」と呼ばれるものだ。

 父が宮大工だったご先祖様のことで自慢しているのが
 県内に建てられた数々の寺社・仏閣、
 ご先祖様が作った実家の大きな仏壇、
 そして五代前の伝八の弟子達が
 亡くなった伝八のために建ててくれた実家のお墓である。

 新潟県の観光名所に「北方記念博物館」がある。
 数年前に友人の加藤氏、川畑氏と尋ねた。
 その前に見たのは20年以上も前だ。

 広大な敷地に贅を尽くした大きな庭。
 当時の栄華が偲ばれる巨大でがっしりとした屋敷。
 素晴らしい欄間や床の間。螺鈿細工の見事な調度品。
 かつての土蔵の倉には美術品、日用品、農具などが
 ところ狭しと展示されている。

 そこにある別棟の奇妙な三角形の茶室。
 建築の平面が三角形でユニークなのだが、
 最近になってこれを建てたのは
 先祖である伝八だと言う記事を文献の中に父が見つけた。

 伝八が棟梁として建てたと聞いた
 寺社・建築はこれで三つ見たことになった。
 まだ県内に2つ以上は残っていると聞いている。

 実家に向かう新幹線の中で
 トランヴェールと言う無料の雑誌を手にした。
 作家の伊集院静がエッセイを連載している。

 その中に日本の自然の多様さが書かれていた。
 ヨーロッパの自然と比較してである。
 自然は勿論だが、文化も多様だと思った。
 
 一神教であるキリスト教は、
 宗教的な圧力が仏教や、神道に比べて強いように感じる。
 キリスト教が背景として成立した近代主義、
 近代社会も同様に単一な価値への強制力が強い。

 昔読んだ哲学者の梅原猛の著作に、
 教会と寺社・仏閣の比較が書かれていたと記憶する。
 それは南方熊楠の引用だったかも知れない。

 曰く、寺社・仏閣は周囲に木を植え、大きく育てたが、
 ゴシックの教会は内部空間に、
 木の代わりの巨大な柱を構築したのだと。

 木や巨大な柱は、
 天と地を繋げる梯子の役割を持っているらしい。

 僕も日本の自然と文化は、
 多様性に素晴らしさがあると考える。
 そして父や親戚の方々と同様に、
 日本の文化を象徴する建築に携わった
 ご先祖伝八を誇りに思っている。  

端午の節句

 メジロを見たのは久しぶりだった。

 ウグイス色の小さな体に大きな白目に大きな黒目。 
 実家のお墓のある裏山への登り口の
 満開の八重桜に止まっていた。
 頭の上で、「ホーホケキョ」とウグイスの声がした。

 3日前のことだ。
 新潟の春は東京よりも2,3週間遅い。 
 ソメイヨシノは終わっていたが、
 しだれ桜、八重桜、大島桜、山桜、桃などが楽しめた。
 新緑も始まったばかりの萌葱色をしていた。

 あくる朝、自宅の庭に愛らしい小鳥が居た。
 オレンジがかった茶色のボディと白黒の頭部。
 母に聞くと「ヤマガラ」だと言う。

 ゴールデンウイークに実家に帰るのは久しぶりだった。
 祖母の三十三周忌の法要があったためだ。
 
 大がかりな法要は田舎でも減っていると思う。
 お金も手間も掛かるからだ。
 法要は宗教的な意味合いは勿論だが、
 普段はめったに会わないような親族が結集する意味合いがある。
 こちらの方の意味が大きいかも知れない。
 しかし僕より若い世代は、そんな場に集まろうとはしない。
 親戚同士のつきあいも若い世代にはない。

 僕の実家で行われる法事もこれが最後だろうと感じてた。
 参加される親戚も昔の半分近くまで減っている。

 子どもの頃、法事が何だが解らないが、
 たくさんの顔も知らない親戚が大勢集まって、
 それだけで興奮したものだった。

 県外の親戚は泊まりなので、食事の準備もおおわらわだった。
 後からその親戚の多くは亡くなった祖父の兄弟だと知った。

 僕の曾祖父までは、代々宮大工だった。
 祖父と三人の男兄弟はみな建築家になった。

 自分も年を取ったなと思う。
 祖父や祖母の自分の知らない話を聞くのが楽しい。
 そして見たことのない曾祖父伝八(屋号)や
 その前の代の伝八の話に興味を持っているが、
 50歳で若い芸者と出奔した曾祖父を知る人は居なくなった。

 家には宮大工の棟梁として記した建築図面が残るのみである。
 
 実家近所のよその庭では、
 大きな鯉のぼりが風を受けて、気持ちよさそうに泳いでいた。

2010年5月1日土曜日

紙ふうせん

 1970年代には様々なフォークの名曲が登場した。
 拓郎も陽水も中島みゆき、ユーミンも70年代デビューだ。

 60年代のグループサウンズの嵐の後は、
 70年代のフォークの時代がやってきたのだ。
 
 忌野清志郎のRCサクセッションも、
 フォークバンドとしてスタートした。
 ヒット曲「僕の好きな先生」。

 清志郎は「ピーター・ポール&マリーが好きだった。
 フォークの方がかっこよく思えた」と答えている。

 古井戸の「さなえちゃん」もこの頃のヒット曲だ。
 「ゆうこのグライダー」って曲もあったな。
 泉谷しげるの「春夏秋冬」も持ってたな。
 そして赤い鳥の「紙ふうせん」。
 初めてギターの弾き語りが出来た曲だ。
 
 「落ちて来たら、今度はもっと
 高く、高く打ち上げようよ・・・」。
 簡単なコードとシンプルな歌詞。
 
 うん、オレにも出来る。
 直登だって歌を作ったんだ、オレに出来ないはずがない。

「僕は空を飛んでいる」と言う歌だった気がする。
 ギターコードが増えるに従い、曲が増えて行った。
 エコーを効かせるために風呂場で録音したりした。

 高校生の時、同級生の裕之君にピアノを習った。
 でも、楽譜は読めないし、ギターコードみたいな
 ピアノコードも憶えられない。
 マンツーマンで、指遣いを教わった。
 その時覚えたのが'LET IT BE''HEY JUDE'だった。
 あれから、うん十年。
 ピアノの腕はほとんど上達していない。
 
 和音が何となくだが、分かりかけたので、
 それらを使って、ピアノ弾き語りの曲も作った。
 ギター曲と併せて全部で20数曲。テープに録音した。
 
 高一の時、同じクラスの由美ちゃんに聞いて貰った。
 もちろん、彼女が好きだったからだ。
 (つづく・・・・だろうか) 

2010年4月29日木曜日

青春の詩

 中学1年生の頃だった。
 
 ビートルズに続いて、フォークが心を捉えた。
 同級生の直登の姉ちゃんがレコードを持っていた。
 
 「岡林信康の世界」が衝撃だった。
 アングラフォークというか、
 拓郎の「結婚しようよ」とは別の世界だった。

 「チューリップのアップリケ」や「流れ者」
 そして「私たちの望むものは」。
 友人の大高が出演した芝居「僕たちの好きだった革命」。
 終了前に主演の中村雅俊がギターの弾き語りで歌っていた。

 「今あるうーふ幸せーーに留まってはならなあいーー。
 まあだ見ぬうーーー幸せにい今飛び立つのだあーーー」。
 今聞いても、ちょっとぐっと来る。
 古くさいメッセージソングだとは思わない。

 ガロのアルバム、拓郎のデビューアルバム「青春の詩」。
 ともに直登から借りて聞いた。姉さんの持ち物だ。
 オレと直登は好きな歌を折り込み風の紙に書き写した。
 題して「歌のアルバム」。
 そう、あの「一週間のご無沙汰でございました」、
 の玉置宏の名司会で始まった、あの番組と同じタイトルだ。
 
 そんな内に直登がフォークギターで作詞作曲を始めた。
 「涙に濡れた君の瞳」と言うたわいもない歌だったが、
 まだ作詞も作曲のしたことがないオレは負けたと思った。
 直登の2作目の「朝の光」は素朴だけどいい感じの歌だった。

 おまけに直登は自分の芸名も考え出した。
 「朝野日美子」、あさのひみこがその名だった。
 「朝、野原に出たら美しい子がいたよ」と言う
 馬鹿馬鹿しい名の由来だが、やはり負けたと思った。
 (たぶんつづく・・・)

2010年4月24日土曜日

絵画の天使

 久しぶりにのんびりした朝だ。
 
 火曜日に代休を取って休んだけれど、
 ライブの疲れと、溜まった家事、
 部屋掃除、風呂掃除、トイレ洗面掃除、片づけや
 図書館へ本の返却へ行ったら疲れてしまった。

 今日はこれから仕事だけど、ぐっすり寝たし天気もいい。
 朝ご飯に、ウインナとキャベツの炒め物、
 胡瓜と人参の漬物、買ってきたアスパラ入り竹輪天ぷら、
 玉葱人参豆腐の味噌汁を食べた。美味しかった。
 浅漬けには隠し味に昆布茶を入れる。

 風呂にゆっくり浸かって、身支度をする。
 毎朝こんなだといいな。

 ライブも無事終えたし、
 もう少しで仕事にも一区切りがつきそうだ。
 このところ、仕事以外でまともに絵を描いていない。
 ライブ中に聞こえた、もう一人の自分の声は
 絵描きとしての自分を叱咤する声だったのかも知れない。

 自らを画狂老人と名乗った、江戸時代の絵師葛飾北斎。
 彼の人生は正に画狂人にふさわしい。
 70代で、もう少し長生きできたら凄い絵師になれる
 そう書いている。
 
 事実、彼の代表作「富岳三十六景」は70代のシリーズだ。
 肉筆画の名作も多くは70代以降らしい。化け物だ。
 以前にこのブログで、晩年に良い仕事をした画家は
 それ程多くないと描いた。晩年にダメになる方がずっと多い。
 
 北斎は例外で、やはり晩年に彼が現した「北斎萬画」は
 多くの西欧の画家に影響を与えた。
 ゴッホの力強い輪郭線は北斎や広重から学んだものだ。
 僕が20代にもっとも感化された画家マチスは、
 著書「画家のノート」の中で北斎萬画の素晴らしさを称えている。

 北斎漫画は今日のマンガとは異なる。
 人物を中心に、ページ毎に同じ人物の様々なポーズが描かれている。
 例えば褌姿の曲芸師が、様々な角度とポーズで描写されている。
 正に萬の対象を現した画帳なのだ。

 昨日も仕事帰りに寄った百薬で、知り合いの白石さんに言われた。
 「よしいさん、今年は個展やらないの?」と。
 「今年は無理だけだと、来年には何とか・・・」。
 頭の中では来年も怪しいなと、思っている。
 
 北斎は生前から名声を博したが、
 お金に執着せず、画業にその人生を捧げた。
 かっこいいな。

 オレはピカソみたいに大金持ちになりたいな。
 晩年ダメになってもいいから。
 絵の神さま、ダメですかね?

 「若さとはこんな淋しい春なのか」
 住宅顕信(すみたくけんしん・俳人)

2010年4月23日金曜日

抱きしめたい

 ラストナンバーは'Hey Jude'だった。
 
 Golden Slumber,Carry That Weight,
The End,からHer Majestyへと続く
 アルバム「アビイロード」最高のメドレーが成功して、
 会場の盛り上がりは最高潮に達していた。 

 「ヘイジュード」でギターが弾きたかった。
 トーマさんのギター弦が切れたお陰で、
 僕のフェンダーはトーマさんの手にあった。

 今回のライブで嬉しかったことは、
 「ガール」や、「恋のアドバイス」
 「エイトデイズアウイーク」でギターを弾かせて貰えたことだ。
 
 自慢じゃないがギターは下手だ。ギターも、と言うべきだな。
 でも弾きたい。ワガママなオレ。

 ボーカルに集中して歌う。
 ルーシーインザスカイの時のジョンと違って、
 ポールは僕の中に入り込んだりしない。

 「苦痛を感じる時は、どんな時でも
  ヘイジュード、自制しなさい。
 自分の肩に、世界を背負ったりしちゃいけないよ」。

 客席の最後尾では、教え子三人と
 初めて会ったカナダ人の男性が踊っていた。
 'NA NA NA NANANANA-,NANANANA-,HEY JUDE'

一体感を強調するような音楽はちょっと苦手だ。 
 でもこの日だけは会場の合唱も心地よかった。
 アンコールの「抱きしめたい」も大合唱。
 「アウオナアホーヨオヘエエエーンド!!」。

 「僕には'LET IT BE'もロックなんですよ」。
 ライブの後で景山さんがそう言った。成る程。
 言われてみれば確かにそうだ。
 
 バンドメンバーの皆がライブの後の放心状態だった。
 いつもはクールなヒロシさんも嬉しそうだった。
 生ビールの後のラム酒オンザロックが喉に染みた。
 カワイさんがゾエさんとギター談義をしていた。
 
 モニター画面では、
 ジョンがストロベリーフィールズフォーエバーを歌っていた。
 (おわり)