2011年6月9日木曜日

詩人と絵描きと3匹の猫と

夢の途中で眠りに落ちた。

夢の中で百薬の長で飲んでいた。
勿論、右手にはグラスに日本酒。
目の前にはカウンターがあり、
皿にはモツ焼きがある。

左手にはモツを焼くマスターが居て、
向かい側にはよく知った常連が居た。

僕は睡魔に襲われ、酒を手にしたまま寝てしまった。
目が覚めると、また同じ席に居た。
幸い、グラスは落としていない。

酒を口にして、辺りを見回す。
いつもと同じようだが、何かが違う。
線路に面した窓の奥に
民家をデザインした灯りがある。
その外は線路脇で藪になっている。
しかしその店には奥座敷があったのだ。

「ここは百薬ではない」
「これは夢の世界だ」
そう思った瞬間に目が覚めた。

ぼくが奇妙な夢を見るのは、 
絵を熱心に描いていない時が多いように思う。
文章、とりわけ詩のようなものは特にそうだ。

巨匠ピカソはオルガとの離婚問題で揉めていた時、
絵筆を執らず、詩を書き続けた。
「尻尾を捕まえられた欲望」とタイトルがある。

「詩人と絵描きと三匹の猫と」
パウル・クレーの絵のタイトルだったか・・。
たぶん、そうだと思う。

2011年6月5日日曜日

ROSE CAFE

 国分寺のイングリッシュガーデン
 ‘ローズカフェ’へ出掛けた。
 たぶん、6年ぶりくらいかな。

 まだ営業を続けているか、
 定休日が何時なのか確認もせずに行った。
 5月の下旬。雨上がりの午後だった。

 久しぶりの濃い藍色の空。
 坂道を登って、真っ直ぐに進む。
 玄関がたわわなバラの樹木に埋もれそうな
 ローズカフェがあった。

 近づいて驚いたのは、薔薇の花の豊穣さだけではない。
 昔のひっそりとした店内とは格段の違い。
 ほとんどが中高年の女性のお客で店内はほぼ満席。
 代休で平日の午後に行ったのにである。

 それでも珈琲にクッキーを注文して、
 店の一番奥まった処にある野外テーブルに着く。
 カフェの裏側は丘の斜面になっている。
 その斜面全体が薔薇園になっている。

 目の前には薄いピンク色のたくさんの薔薇が
 空に向かって咲き誇っている。
 午前中まで降っていた雨の雫がキラキラと輝いている。

 クッキーを囓り、コーヒーを飲む。
 菓子の甘みとコーヒーに苦みが口の中で解け合う。 
 濃く暗く感じられる空と陽射しを浴びる薔薇たち。
 その姿は官能的でもあった。

2011年6月1日水曜日

夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです

 詩人の吉岡実。
 「四人の僧侶」には驚いた。
 若い頃、乾氏から借りた詩集にあった。

 彼のエッセイに「私の作詩法」がある。
 曰く「メモは一切しない」
 「机の上に紙と鉛筆を置き、
 白紙の状態から始める」などなど。
 
 
 そんなやり方でよく書けるものだと思った。
 良いフレーズやイメージが浮かんだら、
 普通は書き留めておきたくなると思う。

 作家村上春樹へのインタビューの本、
 「僕は夢見るために朝目覚めるのです」
 「ねじまき鳥のクロニクル」について聞かれて
 こう答えている。
 「主人公は三十歳の男。台所でスパゲティを茹でている。
 そこに電話が鳴る。それだけです。」
  
 「物語はもう一つの世界だ」と村上は言う。
 そしてその世界は確かに存在しているのだと。
 それは幼児の頃に、空を飛べると信じて
 真剣に空へ向かって跳躍した行為にも似ているだろうか。

 超越を信じること。
 宗教とは違う方法で。

 多くの宗教が持つ弱点は現世利益に応えようとする点だろう。
 あなたの不幸は前世の罪だ。
 こうすれば(寄進や布施など)幸せになれると。
 
 僕は自分が仏教徒といえるのかどうか分からない。
 けれど、仏教の持つクールな感じには惹かれる。
 怨憎会苦、愛別離苦など所謂「四苦八苦」の世界観である。
 そこに煩悩から離れられない凡人の人生が見える。
 決して成功や幸せを前提としていない。
 寧ろ、それらは全てまやかしだと警告する。

 芸術は、とりわけ優れた芸術は
 紛れもなく「もう一つの世界」なのだ。
 宗教よりも、より個人的な世界であり
 自分の内面と芸術の世界を繋ぐための一つの部屋とも言える。
 それは現実と戯れながら、現実とは違う世界だ。

 夢とは違うもう一つの夢なのかもしれない。
 そして僕はその夢を夢見ている。

2011年5月24日火曜日

穏やかな五月

 歌舞伎町の旧新宿コマ劇場脇の広場。
 昔は噴水が在ったところだ。
 
 六大学野球で勝利した早稲田の学生なんかが
 酔って興奮して、噴水に飛び込んだりしてたあの場所だ。

 雨の日の昨日、あの場所にいた。
 午後6時前。手には角瓶ハイボールとカシューナッツ。
 
 新宿コマ劇場は既に長年の活動に終止符を打ち、
 工事用のフェンスに囲まれ、解体を待っていた。
 コマ劇場地下のシアターアプルには何度か出掛けた。
 第三舞台やそのた友人の大高洋夫の芝居を見た。

 初めてディスコに入ったのもこの辺りだし、
 ジンギスカン鍋を初めて食べたのも、
 ビリヤードを初めてやったのもこの辺りだった。

 雨の日に傘を差しながら、ハイボールを飲んでる奴はいない。
 ウイスキーとソーダの味が喉と胃に心地よかった。

 作家の鴻上尚史、高校時代の同級生の荒木と
 ビリヤードをやった店はまだ残っていた。
 椿山荘で行われた大高の結婚式の後、
 吉祥寺で行われる2次会までの数時間をそこで過ごした。

 映画「薔薇の名前」を観た映画館
 シネマスクウェアとうきゅうも残っていた。
 角瓶ハイボールは美味い。

 「ここで寝たり座ったりしてはいけません」
 噴水跡の四角いコンクリートで固められた
 10数畳ほどのスペースにはそんな貼り紙があった。
 「煮炊きをしたりたき火をしてはいけません」
 「法律により罰せられます」

 カシューナッツを囓り、また一口酒を飲む。
 午後6時前、雨の歌舞伎町の広場で。

2011年5月21日土曜日

Day Dream Believer

 映画「いつか読書する日」の冒頭。

 架空の街を牛乳配達するヒロイン。
 まだ夜が明けていない街。
 牛乳を持って坂道を駆け上がる。

 ただその繰り返し。
 駆け上がり、駆け下りる。
 そのリズムが心地よい。

 暗い街に街灯だけが輝く。
 そんな道の合間を自転車で駆け抜ける。
 特撮も何もない。
 けれど魔法がかかったように
 非日常に見えてくる。
 不思議だ。

 ゴールデンウイークの中日。
 誘われて井の頭公園へ。
 ビートルズ研究会のメンバーと
 アコースティックセッション。

 花見でないのに、シートを敷いて座る。
 ビールに焼酎。お寿司にお総菜。
 飲んで食べて、弾いて歌う。

 'IF I FELL''AND I LOVE HER''I WILL'などなど。
 立ち止まって聴いてくれる人たちも居た。
 あいにくの雨で引き上げるまでの2時間。
 楽しい時間だった。

 こどもの頃の夏休み。
 プールの休憩時間。
 煌めく水面を見つめたり、
 プールの縁のタイルが乾いていくの見つめる。
 泳いで疲れた身体のせいで、頭も少しボォーーとしている。
 目の前光景がまるで白日夢のように感じられた。
 
 次の公園セッションは6月12日日曜日。
 場所は所沢市航空公園。
 ビートルズの他にモンキーズのDay Dream Believer
ニール・ヤングのHelplessなんかを演るつもりだ。

2011年5月19日木曜日

自分という物語

 昔のことを思い出す。
 恥ずかしい過去や、くだらない自慢話。
 中一の時のバレンタインデーのチョコの数。

 先日、久しぶりに友人の乾さんと国立であった。
 ドイツビールを飲みながら話した。
 前の個展以来だから、2年以上経つ。

 「よしいさん。
 夢って気にする必要がないですよ。
 誰かの夢を見たり、厭なことを思い出したりしても
 そんなことに意味を見いだす必要なんかないです」

 どういういきさつで夢の話になったかは定かでない。
 でも、この言葉には得心がいった。
 もっと言えば、はっとした。
 そうか、気にすることなんか何もないんだと。

 夕べは凄く眠かった。早く布団に入った。
 瞳を閉じると眠すぎて、瞼の裏がじんじんとする。
 今までならば、そこで「ああ眠れない」と思った。
 寝られなくても構わない、そう思ってやり過ごした。
 変な夢を見て、目が覚めた。でも気にならなかった。
 ちょっと前まで厭な夢を見ると、
 その厭な感じが後まで残ったのに。

 気にならなくなること。
 これを夢の世界だけでなく、昼の時間にも応用出来ないか、
 2,3日前にこう思うに到った。
 
 自分は捏造されている。
 数々の思い違い、勘違い、妄想で構築されている。
 ならば今現在の自分の世界、自分の周りの世界
 この二つに区別があるのかも定かではない。
 そんな不確かな世界について、 
 思い悩んでも致し方ない、そう思った。

 だからと言って何が変わった訳でもない。
 ただ夢をただの夢と知ったことに似ている。
 世界は世界だ。自分は自分だ。
 それ以上でもそれ以下でもなく、 
 僕が日々をただじたばたと生きる
 そのことに何の変わりはない。

2011年5月8日日曜日

ありきたりの狂気の物語

 生きること。
 とりあえず夜になると練ること。
 実際には眠れなくてもかまわない。

 重要なことは部屋があり、寝具があることだ。
 眠れなければ、
 目をつむって妄想でも思い出にでも浸っていればよい。

 朝に起きたら、飲み物や食べ物が身近にあること。
 それらを飲んだり、食べたりする肉体と精神を持つこと。
 酷い二日酔いの朝は食べることは困難だ。 
 怪我や病気でも飲んだり食べたりが困難になるだろう。

 そしてそれらが「美味い」と思えたら、
 まさにそれが「生きている」ことではないか。
 ものを食べたり、飲んだりして
 それが心地よいときは、間違いなく元気だ。
 お酒が旨ければなおのこと良い。

 僕らは、多かれ少なかれ自らの病と付き合う運命だ。
 病には心のそれも含まれている。
 狂気はいつもの私の背後で隙を伺っている。
 それを「ダークサイド」と呼んでも良い。
 「フォースの暗黒面」と書いてもいい。

 ダースベイダーの苦しそうな息づかい。
 それは僕の内側から聞こえてくる。
 「フォーーーーッファーーーーッ」

 排泄が快調なこと。
 以前、前立腺が炎症を起こしただけで、
 尿がでなくなり、辛かった。
 循環器が働かなければ、我々は死を迎えるしかない。

 「死の天使」は私の直ぐ上をぐるぐると回っている。
 見たことは一度もないが、天使の眼差しは感じることがある。
 
 そして一日が終わる。
 その一日の終わりに、ギターを弾き歌い、ブログをしたためる。
 英語絵日記を描いたり、スケッチをしたりする。
 そんな一日の終わり。

 「おやすみなさい」と誰かに言えること。
 もしくは自分につぶやくこと。
 「おやすみなさい」