2011年7月6日水曜日

リア王

水曜日に携帯電話を無くした。
今年に入って2回目。
一度目は西武拝島線、玉川上水駅の車両の中。
翌日に見つかった。

自分の携帯に電話した。
聞き慣れた男の人の声。
夕飯に寄った、思い出横町の定食屋のマスター。
落ちていたのを拾って預かってくれていた。

昨日、1週間以上見つからなかった絵日記が出てきた。
毎日、デタラメな英語と緩い絵を描いていた。
諦めたかけた処に職場の段ボールから発見。

去年から落とし物が悉く見つかっている。
エレキギター、(落とすなよ、オレ)他数点。
ほとんどが電車の中。たいていは酔っている。

その前の数年間、落とし物は必ず紛失していた。
メガネが2点、帽子は5,6個、傘多数。
メガネは電車の途中に無くしているのだが、
何故か出てこなかった。

他にも手提げ袋や何か。
見つからない周期と見つかる周期。
何故だが解らないがそんなものは在る。
まるで、ギャンブルにおけるツキの波のように。

短い一時期のギャンブル体験。
毎日のようにパチンコ屋に通い、そこそこ勝っていた。
ある日から連日負けるようになり、
ただでさえ苦しい学生の身分なので止めた。

先日読み終えたシェイクスピアの「リア王」。
小学校の予餞会の劇がなんとリア王だった。
オレはリア王の末娘、コーディリアと結婚する
フランス王の役で、同級生の紀美子がコーディリアだった。
予餞会当日。シェイクスピアの四大悲劇の一つなのに、
何故か客席は爆笑の嵐。田舎の小学生がリア王だもんな。
オレなんかがフランス王と思ったら笑うよな。

信じた長女、次女に裏切られたリア王。
最後は錯乱の上に死ぬのだが、
かつて王であった自分をただの老人だと自覚する姿が良い。

マクベスもそうだが、
人間を見えない運命に翻弄された存在と描く。
本当は翻弄も何も無く、あらゆるものが移りゆくだけなのだろう。

携帯を無くしたくらいでオタオタとする、
そんな自分の愚かさを嗤おう。
しかし、暑いねーー。

2011年7月3日日曜日

ポスト・モダニズム(近代主義について)

大学時代の現代美術論の教授。
美術評論家の藤枝晃雄氏。
授業は勿論だが、著書でも影響を受けた。

名著「ジャクソン・ポロック」。
「現代美術の展開」や「現代美術の彼岸」とともに
自宅の本棚に今でもある。

「日本は生まれながらのポスト・モダニズムで
モダニズムが欠如している」とかつて指摘されていた。
氏は日本の美術は文学的な色彩の濃い
シュルレアリズムの影響が根強く、
モダニズムの主流たるキュビスムや抽象絵画の系譜
が発展してこなかったという。

ポスト・モダニズムと言えば建築。
その先鞭をつけたのが建築界の巨匠フィリップ・ジョンソン。
彼はモダニズムの延長線にあったミニマリズム。
その標語であったLess is More.
「(より)少ないことは(より)豊か」といった意味か。
それを Less is Bore.と言ったジョンソン。
「(より)少ないことは退屈だ」という意味だ。
ジョンソンはモダニズムの様式に
西洋の古典要素、古代ローマや古代ギリシャ、ゴシック様式、
それらを取り入れることで現代建築の流れを変えた。

藤枝氏の言うモダニズムには
哲学者カントからの「根底を問う」といった
還元主義の思想がある。
絵画の構造や要素を明らかにして
「絵画とは何か」を問い続ける。

ダーウィンの進化論がそうだが、ルーツを辿ること、
集合論に基づいて分類すること、
これらにモダニズムの秘密がある。

絵画においてはモンドリアンの新造形主義を例にとろう。
絵画を線と色彩という要素に還元して、
その組み合わせによって絵画を成立させる。
水平線と垂直線は黒。色面は赤・黄・青に白。
それ以外を持ち込まないし、認めない。

でも、何故そのような考えに取り憑かれたのか。
そこが解らないと、モダニズム、近代主義の秘密は
解き明かされないと思うに到った。
(たぶん、続く)

2011年6月30日木曜日

LET’S TRY AGAIN

夏風邪にやられた。
先週の木曜の朝に喉がおかしかった。
金曜の朝は喉の痛みで目覚めた。

土曜日の朝に医者へ行き、
まる2日間寝込んでいた。

毎年、6月に変調をきたす。
職場が新宿に変わって4年目。
昨年は酷い口内炎。
一昨年はやはり夏風邪。
3年前は目の異常があった。

分析してみると、幾つかの事実に気付く。
昔はゴールデンウイーク明けには仕事が一段落した。
今は6月を過ぎてもバタバタと忙しい。
おまけに6月には祝日がない。日は長い。
青梅市テニス大会と東京片貝会がある。

6月最後の日に休みが取れた。
先週買った、チームアミューズのDVDを観た。
桑田佳祐が大震災復興支援で企画し、
アミューズ事務所所属のミュージシャンや俳優、
コメディアンらが参加した音楽映像作品だ。

福山雅治はやはり男前だなー、パヒュームは可愛いな。
ビギンの歌はいいな、三宅裕司は根っからの喜劇人だな。
などと、「がんばれ日本」が嫌いなくせに、楽しめた。
たぶん、本業の歌や演奏、演技で本気で応援しているからだろう。
それが、公共広告の「がんばれ」とは違うのかな。
企画の意図と桑田のプロデュースの力かな。

勤勉は日本人の美徳なのだろう。
でも勤勉を旨とする人たちに、「がんばろう」は時に酷だ。
精神科医のなだいなだも書いていた。
世界第2位の自殺大国ニッポン。
「がんばらない」勇気の必要性。

夏風邪に罹る三日前、
墨汁で紙に「がんばらない」と書いて壁に飾った。
がんばらない、でも続けること。
さぼりながら、じたばたしながら。
生きることを続けている。

2011年6月28日火曜日

近代主義について

不思議に思う。
それもかなり頻繁に。

日本の近代化とは何だったのか。
そもそも(遅れていた)西洋が強大になった
近代主義とは何か、長年の疑問だったのだ。

理由は簡単だ。
僕らが近代化社会に生きている現実があるのに、
近代主義が分からないのは、
自分の生きている時代の根本が分からない、
そういうことになると考えていたからだ。

ある年齢になると自分の国の歴史、地理、文化について
特に意識するようになった。

自分は西洋絵画を基本とした表現を追求しているのに、
その背景がまるで分かっていない、そう気付いた。
同時に日本についてどれだけ理解しているのか、
ほとんど分かっていないというのが実感だった。

自分が住んでる住まいや着ている服、
使っているモノ、目にするあらゆる人工物。
あらゆるメディア、広告や印刷物、勿論アートも。

文学も音楽も、演劇、映画、デザイン、そして美術。
これらは近代主義とどう関わっているのか。
日本いう国の風土や文化とどう関わっているのか。

極端に言えば、私たちの生活の中で
近代主義と無縁なものの法が少ないのではないか。
では近代主義とは何か?
(続く)

2011年6月23日木曜日

スタンダードナンバー

最近、オアシスやコールドプレイを聞いている。
十代の洋楽好きの男子からオアシスが良いと聞いたからだ。

考えてみれば、オールディーズばかりを聴いてきた。
最近買ったCDはビリー・ジョエルのベスト盤、
ビージーズのベスト盤、後は何とかジャパンてヤツ。
震災復興支援のCDだが聴いていない。

オアシスやコールドプレイはそれなりに気に入った。
毎朝、朝食を作りながら、お風呂に入りながら聴いた。

職場の洋楽に詳しい先輩に、
オアシスとコールドプレイを聴いていると言ったら
怪訝な顔をされた。そして一言。
「僕は彼らの曲がスタンダードになるとは思えないんだ」

厳しいなと思ったが、鋭いなとも思った。
彼らの曲にも当然スタンダードナンバーはあるだろう。
CMにも使われた曲は耳に覚えがあるし。

12日日曜日の午後三時。
午前中の仕事を終えて航空公園に行った。
ビートルズセッションの仲間と公園セッションをやるためだ。
ビートルズセッションではビートルズしかやらない。
後は彼らがソロになってからのナンバーだけだ。

この日は好きな曲と言うことで、
ビートルズが多かったが、イーグルスやニール・ヤング、
デレク&ドミノスにモンキーズなんかもやった。S&Gも。

DAY DREAM BELIEVERとかやってて思った。
やっぱりビートルズは難しいなと。
それは彼の曲の多くがスタンダードナンバーになってことが大きい。

みんなが細部まで知っている曲。これは大変なのだ。
オアシスのナンバーよりも音の歪みが小さく、
ほとんどの音がクリアーなのも実はハードルが高い。

スタンダードは標準の意味だろう。
その時代の標準となるような作品を産み出すこと、
これは画家でも文学者でも大変なことだ。

へっぽこ絵描きの僕には
スタンダードを産み出すのは厳しいな・・。

2011年6月16日木曜日

夢の構造

●以前のブログに乾氏から夢についての助言を
受けたと書いた。
以下は、乾氏からの更なる補足である。
乾氏の了解のもと、ここに掲載します。●

夢に関しては、今までの経験や、本で読んだ話から、
自分なりの答を出しています。(19~20年前でしょうか)

ぼくの答えとしては、
アタマというのは、「高性能なバカ」なので、
一度、ある「連想」のクセが出来てしまうと、
しつこくそれを繰り返すことしか出来ない、
自分ではそれを修正出来ない、ということです。

その「連想」がどうして出来てしまったのかは、
それなりに何かの事情がある場合もありますし、
単に思いつきのような、デタラメの組み合わせの場合もあります。
アタマの方としては、何かで「近づいた」物同士が結びつくだけです。
で、一度結びつくと、それが固定して、連想の「クセ」になるわけです。

まあ、本当に単純な原理なわけです。
ただ、ものすごい速度なのと、絶対的に徹底しているので、
なかなかやっかいです。
自分では決して改めないですから。

   *

で、そのことを分かっているらしい人たちのエピソードを2つほど。

どこかの原住民の村では、夢についてはそれなりの技法が伝わっていて、
家族でも知り合いでも、自分の夢についてはオープンに話すそうで。

たとえば子供が、落ちてゆく夢を繰り返し見て目を覚まし、悩んでいると、
親は「今度その夢を見たら、どこへ落ちるか落ち着いて見ていてごらん、
やわらかい草の上かもしれないし、もっといい所かも知れないじゃないか」
などというアドバイスをします。

   *

いつの時代の、どこの男かは忘れましたが、
ちょっと昔のヨーロッパの貴族で、夢に関心を持って、
夢を記録したりしている男がいました。

そいつは、別に心理学の知識があった訳でもなく(時代が古いので)
ただ、自分の興味で夢を研究していたわけですが、
ある時、蛇の夢を繰り返し見るので悩んでいました。
自分の首のまわりに大蛇が巻きついている夢です。
そこで彼は、昼間の間、起きている時は
いつも自分の首に狩りのためのベルト(銃弾装着の)を掛けて
数日それを続けたそうです。
彼は、狩りが大好きだったようです。

すると、ある日また蛇の夢をみましたが、
首に巻きついていた蛇は、すぐにベルトに変わり、
その後、夢は楽しい狩りの場面になっていったということです。

   *

要するに、夢の中のバカ連想を、
昼間の意識の側から操作して変更してやったわけです。
そして、夢というのは、それだけのことです。

2011年6月14日火曜日

異邦人

 曇り空。
 記憶の中の街。100年前の海を想う。
 ラジオの音が漂う部屋。

 練馬区豊島園のアパート。随分と昔のことだ。
 ガラスの障子を見つめる。
 外は暗い。粗末なちゃぶ台。
 小さな白い冷蔵庫。
 
 ガラスコップにサッポロ黒ラベルの大瓶。
 肴には魚肉ソーセージ。
 湖池屋のポテトチップス。

 フォークソングの甘く寂しい調べ。 
 ぼんやりとビールの泡を眺める。
 外は雨が降り出している。
 
 一本目を飲み終えて、少しいい気分。
 2本目の栓を抜く。
 トクッ、トクッ、トクッと楽しげな音。
 濃い小麦色の液体。苦みが嬉しい。

 油絵の具とテレピンの匂い。
 重く湿った空気。壁にはムンクのマドンナ。
 模写したゴッホの晩年の自画像。
 ピカソの薔薇色の時代、サーカスの親子。
 彼らはみな黙りこくって、
 遙か遠くを眺めている。

 ビリー・ジョエルの「ストレンジャー」が流れる。
 絵の中の人物も僕も同じ異邦人だ。

 2本目を飲み終えて、とてもいい気分。
 雨音さえもいい調子。
 ラジオしかない、四畳半の部屋。

 もう存在しない、記憶の中の世界。