2012年8月28日火曜日

俺に訊け!

プチダイエットを試みて、はや三ヶ月。

一進一退を繰り返している。
おかしい。なんかおかしいぞ。
テレビでは一ヶ月ではっきりと効果が出ると言っていた。
近所の人には
「最近、太ったんじゃないの?」と言われた

痩せてちょこっとでも格好良くなりたい。
都内某所で俳優の村上弘明氏を見かけてからだ。
格好よかった。すっきりして控えめで物腰も素敵だった。
いままでお目にかかった、
どんな女優や俳優よりも憧れてしまった。
(ゲイじゃないけど、素直に同性として素敵だと思った)

体重計を買って、カレンダーに毎日記録。
食事の見直し。自炊を増やし加工食品と卵を減らした。
アーモンドの食物繊維が良いと聞き、毎日食べている。
食べる前に自己暗示にかける。
「お腹は空いているか?」「よく噛んで食べよう」
「ゆっくり食べよう」これを毎食前に心の中で唱える。
ドリフか?(「歯、磨いたか?」チョーさんが言ってたね)

これで上手くいっていたら、
表題の「俺に訊け!」が生きる訳だが、
世の中、そう上手くは運ばない。

俺に訊いても無駄だよ、でも自分の身体に問いかけること
それはそんなに悪くないよ。
三ヶ月後にきっと・・・・・・・・・・。

2012年8月23日木曜日

イマジン

歴史から学ぶのは難しい。

日露戦争の後、日本中で講和条約が軟弱だと
政府を非難する抗議活動が起きたという。
マスコミもそれを煽った。
歴史小説家の司馬遼太郎は
「ロシアに勝ったという驕りがその後の日本を狂わせた。」
とその著書に書いている。

第2次世界大戦では、当時の軍部もほとんどが
「勝ち目が無い」と分かりながら、日米開戦に踏み切った。
国民やマスコミはそれを支持していたのだ。

中国を見ていると、国内の不満を体制にぶつけられないから、
反日をガス抜きにしているようにも思われる。
日本はどうなのだろうか。
同じように内政問題の様々な不満のはけ口を
隣国へ向けてはいないだろうか。

物事は、特に他者が絡む場合は
劇的に良い結果を期待するのは難しい。
革命後の悲惨さはフランス革命のみならず、
世界史には珍しくない。

オリンピックの閉会式でジョンのイマジンが流れた。
よく考えてみれば皮肉な話だ。
オリンピックはぼくも好きで見ている。
しかし、それは正に国同士の争いを現している。
ジョンはこう唄う。
「国なんてないと思ってごらん」と。

ナショナリズムについつい熱くなってしまう、
ぼくのような人間をジョンは嗜めているのだろうか。

南アフリカの元大統領のネルソン・マンデラ氏。
獄中に在っても、看守に対して敬意を払ったという。
彼は敵の中に潜む「憎しみの対象」が
自分の影に過ぎないことを知っていたのだろう。

「みんなが今日のために生きていると思ってごらん」
ぼくはちょっとだけ、ジョンとマンデラ氏に学ぼうと思う。

2012年8月7日火曜日

真珠の耳飾りの少女

「真珠の耳飾りの少女」を以前に西洋美術館で見たのは
確か25年以上前だったと思う。
並びながら遠目で眺める。
離れて見ても、輝くような肌色と青いターバン、
黄色い衣装、髪飾りが漆黒の背景と鋭い対比を描く。
要するに「絵力が強い」と感じる。

隣の西洋美術館で展示されていた
「真珠の首飾りの少女」。これも名品だった。
特に柔らかな女性の輪郭が冴えていた。

前にも書いたが、フェルメールの短い生涯で
晩年に当たる時期の作品は良くない。
(ついでに言うと初期の作品も優れていない)
タッチ(筆触)が硬く、表現は以前の模倣に陥っている。

良い時期の彼の光の表現は神業に思われる。
肉眼で見える筈も無い「光の粒子」を感じさせる。
絵の具という物質が光に変質している錯覚を覚える。
長い絵画の歴史の中でも特筆されるべき表現だ。

フェルメールの作品に会えると
自分の画家としての素養・画力が試される思いがする。
他の画家だと素直に感動したり、がっかりしたり出来るのだが
フェルメールは、それ以外に自分や他の作家の作品を
ある角度から判定する材料にもなっている感じがするのだ。

「洪水のあと/動物たちの肖像シリーズ」の小品「放蕩息子」は、
フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を見た次の日に描き上げた。

優れた芸術表現はどこまでもオーソドックスでありながら、
基本を徹底することで、基本や常識を超えたある地点へ到達する。
それはスポーツ選手の優れた業とも共通する何かだ。

芸術はこの世界に現れた一つの奇跡なのだと思う。
けれどその奇跡はありふれた日常の中に潜んでいるのだ。