2009年10月29日木曜日

プロントくんのアニメ

 アニメを描き終えた。
57枚。たぶん1分強のミニミニアニメになる。

 10年前、取り組んで挫折した「キャットくんとふしぎなプール」。
 今ラフスケッチを見ると、アニメのことが少しも分かってない。
 今だって分かってないのだが、動きの大切さは学んできた。

 いつか他の制作を中断してアニメに取り組もうと夢想しては挫折。
 アニメの絵より、素描やキャンバスに向かう方を選んできた。
 いや、逃げ込んでいたのかもしれない。
 
 前回の個展「洪水のあと」を終えて、もう一度未消化だった
 「プロントくん」を取り上げようと考えたのがきっかけとなった。
 新しいホームページを藤塚さんに作って頂いたことも、新しい制作に
 挑む動機になったように思う。

 来週撮影予定だ。
 上手く動いてくれるといいのだけれど。

 描き終えて、絵本「ひとまねこざる」のジョージの絵が頭に浮かんだ。 
 たむらしげるさんの絵やアニメもだ。
 創作者としては普通は書かないことかもしれないけれど、
 ボクは影響を受けていることを、むしろ誇りに思っている。
 
 音楽も依頼して付けて貰うつもりだ。
 楽しみだな。
 




 

私のお気に入り

 ジャズを聞くようになったのは30歳頃からだろうか。
 
 それまでは食わず嫌いだった。
 同じ職場にいたI氏がそれを治してくれた。
 ビル・エヴァンス、セロニアス・モンクに始まって
 サラ・ヴォーン、マイルス・デイビス。
 「だんだん、サックスが良いと思うようになりますよ」
 言われた通りだった。

 チャーリー・パーカーにジョン・コルトレーン。
 クイント・イーストウッド監督の映画「バード」も観た。
 チャーリー・パーカーの伝記映画である。
 NHKで放送した、「ジャズの歴史」。たぶん英BBCの
 制作だったと思う。いい番組だった。

 村上龍が、ジャクソン・ポロックの画集に解説を書いていて
 コルトレーンとの共通点を指摘していた。
 彼らの共通の特徴は「埋め尽くし」だと。 
 上手いこと言うなと感心した。

 破滅型の天才という点も共通している。
 コルトレーンはドラッグ中毒、ポロックはアル中だった。
 コルトレーン、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス。
 みんな身を削るような音を創り出して、早逝した。
 良いも悪いもそういう生き方しか出来なかったのだろうと思う。
 ポロック、ゴッホもそうだ。

 セザンヌやモネは老齢まで生きながらえて、
 その作品は益々輝きを増した。
 普通は晩年に作品の質が落ちる。ピカソも例外ではない。
 技術が衰えるのでなく、制作の動機が減退するからだろう。
 
 酔いどれの無頼派の画家、長谷川利行は
 「芸術は人生に値するか」に対して
 「人生は芸術に値するか」と言ったとか。

 コルトレーンの「私のお気に入り」はいつ聞いてもいい。
 ただし仕事中だと仕事を止めたくなってしまうけれど。

2009年10月27日火曜日

ポンペイの壁画

 古代ローマの美術展に出掛けた。
 上野の西洋美術館だ。

 実を言えば古代ギリシャのクラッシック以降、古代ローマ
 の美術は好きでなかった。
 ルーブルで「サモトラケのニケ」や「ミロのヴィーナス」を
 見ても、いささかの変化もなかった。何故か?

 あまりに技巧的なのだ。「仏作って魂入れず」という感じかな。
 同じギリシャ人が作っても「ガンダーラ仏」は素晴らしい。
 前にも書いたが、主題、精神性はやはり重要なのだ。

 けれど、古代ローマの絵画は違う気がしていた。
 実物を見た。灰に埋もれた「ポンペイ」の壁画である。
 良かった。彫刻に比べると、拙さ、未熟さはあるのだが、
 逆にそれが魅力に思えた。

 展示の仕方も良かった。
 壁画は当時の家屋に合わせて展示されていた。
 出口近く、巨大液晶画面による映像での解説も驚いた。 
 発掘されたポンペイの街の現在の様子と、研究によって明らかにされた
 当時の生活のCG映像が合体して、タイムトラベルした気分になった。 
 
 2千年も前のローマ人の息づかいが感じられた。 
 
 
 
 

2009年10月26日月曜日

中越地震 その2

 火曜日には電気が復旧していた。
 テレビニュースでは地震の被害をトップで伝えていた。
 ガスも水道も止まっている。余震は続いている。
 
 けれど、チャンネルを変えればプロ野球やバラエティなど、
 地震とは無縁のいつもの日常があった。
 自衛隊が救援に来ていた。
 自衛隊がこの町に救援に来たのは38年の豪雪の時以来だ。
 あの時は町全体が雪に埋もれていた。4mはあったと思う。
 次の年に新潟地震があった。

 夜も震度4くらいの余震が次々に来る。
 布団で寝ていても何度も目が覚める。
 目の前の大きな箪笥が倒れたら、大怪我ををするだろう。
 次の日、40キロ離れた母の郷里守門村に電話した。
 母は祖母に会いに帰っていたのだ。
 その時だ。

 大きな地震が起きた。ソファに座っていたが全く動けない
 後で聞いたら、震度5強だった。
 23日の地震は震度6.誰も動けなかったはずだ。
 余震が恐ろしくて、家の中で寝られれない人もいた。
 母を迎えに守門までいった。いつもの道は不通なので
 柏崎経由で、片道4時間近くかかった。往復8時間弱。
 余震は1週間経っても続いていた。

 終

2009年10月25日日曜日

中越地震

 一昨日のことだ。
 帰りの電車の中で、車内の液晶テレビを観ていた。
 「中越地震」から5年の記事を見た。
 
 その時、携帯が振動した。
 新潟の友人、正敏くんからのメールだった。
 同じ同級生の高野昭人くんが、片貝中学校で講演会を行い
 その後に同級生がお祝いに集まってると書いてあった。
 返事にお祝いを述べ、地震から5年たったなあと書いた。

 5年前の10月23日。土曜日だった。
 仕事の後で、行きつけの飲み屋「百薬の長」で飲んでた時に、
 グラッと来た。勘定をして、駅に向かう途中でメールが着た。
 同じ中学で東京在住の準子さんからだった。
 「中越で酷い地震が起きた。電話をしても通じない」と。
 実家に電話しても、友人の富士雄くん、孝雄くん正敏くんに電話しても
 通じない。大したことはないだろうと、タカを括っていたが
 次の日曜日に車で実家に帰ることにした。

 朝の五時に家を出た。出る前に富士雄くんに電話したら通じた。
 破損などの被害は酷くないが、電気・ガス・水道全部ストップだ、と。
 湯沢まで何事もなく、順調に行けると思われたが、湯沢で高速が不通
 になり、国道17号線も不通だった。カーナビはなく、不慣れな山道
 を迂回して何とか郷里小千谷市の隣、川口町までたどり着いた。

 それまで普通だった様子が一変。町の中心に行くと、家々の所々が壊れ、
 交通信号機が停電。さらに進むと、アスファルトの道の片側が陥没。
 これはただ事ではない。あと少し。先の橋を越えれば小千谷市だ。
 「橋は壊れて通れない。小千谷に行けるルートは分からない。
 トンネルも崩落などで、ほとんど不通だ」と、橋の手前で言われた。
 飲み物を買いに車を出た時、「ドン」と言う大きな音とともに縦揺れがきた。
 体験したことのない揺れだった。

 迂回して迂回して、昼過ぎに柏崎に入る。
 富士雄くんに電話して、一人で居た父の無事を知った。
 長岡から小千谷に向かうがことごとく不通。車の調子もおかしくなり、
 やむを得ず帰京。車を修理に出して、再び小千谷に行ったのは
 地震から4日たった26日火曜日だった。
 
 つづく(かもしれない)

2009年10月23日金曜日

秋刀魚の味

 映画を見る機会が減った。
 映画と言ってもほとんどがビデオだが。
 それが、減った。

 10年前までは、レンタルビデオ屋に通っていた。
 大学生の頃は、早稲田松竹、パール座など名画座に出掛けた。
 高校生の時、映画は一番の娯楽だった。
 中学校の時は、映画を見ることが一大イベントだった。
 映画館のなくなった片貝町では夏になると、小・中学校の体育館で
 名画上映会があったのだ。

 「宇宙大戦争」「四谷怪談」「アタックNO1」
 「唐獅子牡丹」など子どもから年寄りまで楽しめるラインアップ
 のため、書いてみるとメチャクチャな組み合わせだ。
 しかもその頃でもだいぶ古い映画だった。
 でも楽しかった。

 村上春樹が「遠い太鼓」というヨーロッパ滞在記の中で、
 ギリシャの小さな島の映画館のことを書いている。
 読んでいて、小学校の体育館を思い出した。

 今年観た映画は映画はわずかに五本。
 この10年で最も少ない。
 「秋刀魚の味」「田園交響楽」「ベニスに死す」
 「不思議惑星キンザザ」「くじらとり」
 「くじらとり」だけ、ジブリ美術館のシアターで観た。

 「フェリーニの映画は大変なご馳走です」。
 かつてジョン・レノンはインタビューにこう答えている。
 確かに良い映画を観ると、お腹が一杯になる感じがする。

 新宿の劇場で「チェコアニメ映画特集」をやっている。
 行こうかなと思っている。

 「木の葉ふる空が秋になりきった」山頭火
 
 
 
 

2009年10月21日水曜日

されど私の人生は

 「もう、どうでもいいのさ
  つまらないことは考えないで
  そこからの道を急ぐのさ
  それがもっとも肝心さ」

 斉藤哲夫の歌と出会ったのは、高校時代隣の高校の文化祭だった。
 フォーク研のメンバーが「悩み多き者よ」を演奏してたからだ。

 その後武田鉄矢がパーソナリティを務めていた「青春大通り」で
 「されど私の人生」「バイバイグッドバイサラバイ」などを聞き、
 とても好きになった。

 「変わる、変わる目の前が。変わってそれでおしまいさ。
  されど私の人生は、されど私の人生は。」

 確か司馬遼太郎が書いていたと思うが、「高度成長」は
 日本史において明治維新や敗戦よりも、大きな変化を
 もたらしたかも知れないと。

 僕が生まれた頃の新潟の田舎町片貝は、まだ牧歌的な雰囲気があった。
 明治以前から長く続いた農村と言う共同体の性格を持っていた。
 フォークやニューミュージックで言うとかぐや姫の「ひとりきり」
 やガロの「美しすぎて」で美化され、賛美された世界。
 スピッツの「夢じゃない」もそんな世界への憧憬が表されていると思う。

 未開(失礼な言い方ではある)の世界の人たちが近代文明を拒否
 しているのは、必要がないからだろう。もしも彼らの環境が残される
 ならばの前提でだが。
 進化と呼ばれるある変化は私たちの‘弱さ’のせいではないのか。
 時々そう思うのだ。
 
 宮本常一の「忘れられた日本人」を読むと、近代化する前の日本の姿が
 理解できる。そこには近代とは別の合理性を持った文化と思考が伺える。
 昔が良かったとか、そういう事ではない。自分が生きている世界や時代の
 基にある日本の姿を知っておいた方が良いのではないか。
 不勉強な自分にそう言いたい。

 いかん、今日もマジメになってしまった。年のせいかな。

 「これでいいのだ」赤塚不二夫

2009年10月20日火曜日

どうにかなるさ

 かまやつひろしの「どうにかなるさ」。
 好きな曲だ。中一の時初めて買ったレコードかも知れない。
 
 よく考えてみると、日本の歌には男が去っていく歌が結構ある。
 「どうにかなるさ」チューリップ「心の旅」岡林「流れ者」
 マチャアキ「さらば恋人」ジュリー「サムライ」。
 みな男が勝手に去っていくストーリーだ。

 ビートルズや他の洋楽ではあまり見られない気がする。
 たいていは「なぜ僕を捨てたの?」とか「行かないでくれ」だ。
 せいぜい「いい加減にしないと、オレは行っちゃうぜ」くらいだ。

 日本の男が西洋の男より強いからか。違うな。
 逆じゃないか。歌にはその国や地域の文化の欲望が現れる。
 欲望は普通実現できない願望が現れる。
 勿論、女を振る男もいるし、その逆もある。
 けれど、女を振り切ってさすらいの旅に出たことのある男を
 僕は知らない。聞いたこともない。
 でも僕はこれらの歌がみな好きだ。
 やはり憧れが込められているからだろうか。

 1980年代に書かれた村上龍、坂本龍一と毎回違うゲストに
 よる鼎談がまとめられた本「EV.Cafe」に日本の歌謡曲の歌詞
 の酷さが書かれていた。
 知り合いの日本史の先生が酔うとよく古い歌謡曲を歌ってた。
 彼がこう言ってた。「昔の歌は三人称で書かれていたんだよ」。
 成る程、確かにそうだ。プロの作詞家が書いた歌には情景が見える。
 昔、懐メロ番組を見て気に入ると、紙に歌詞を写したものだった。
 東海林太郎の「国境の町」とか春日八郎の「別れの一本杉」とか。
 小学生の頃だったと思う。
 
 ぼくはフォークが好きだから、シンガーソングライターの歌も好きだ。
 ユーミンも中島みゆきも初期の作品は大好きだ。
 体で感じた感覚、愛おしさや切なさが言葉になっているからだ。

 昭和レトロブームの中で、もう一度昭和の歌謡曲の詩の世界が見直されて、
 風景が、人やものの細部が、光や風や手触りが感じられる
 そんな歌が生まれるといいなと思う。

 「かたはらの秋草の花かたるらく滅びしものはなつかしきかな」牧水
 
 
 
 

あのねのね

 あのねのね「今だから愛される本」。
 その中で清水邦明がニーチェが好きだと書いていたから
 高校時代にニーチェを読み始めた。

 あのねのねの唄で一番有名な「赤とんぼの唄」。
 「赤とんぼの羽を取ったら油虫」。そしてまた
 「油虫に羽をつけたら赤とんぼ」。
 ニーチェの永劫回帰である。

 飲み会の二次会でカラオケにいった。
 あのねのねの「流転の唄」があって、ビックリ。
 当然?そこにいる誰も知らなかった。
 この唄も永劫回帰のイメージが唄われている。

 あのねのねのオールナイトニッポン。
 よく録音してた。途中で寝てしまう時があるからだ。
 「パーティは終わったよ」「別れの哀しみ」
 「愛の調べ」 「雪が降っています」等々、
 普段のコミカルでない曲の中に佳作があった。

 加藤和彦氏が亡くなられた。
 まだ小学生だった頃「ヤング720」と言う番組があった。
 朝の7時台から、フォークのライブを流すような番組だった。
 その番組の司会が加藤和彦。朝の全国ネットでジーンズに凄い長髪。
 おおーっと言う感じ。あの時代だから出来た番組だろう。
 サディスティック・ミカバンド。かっこよかった。

 高校時代の友人、荒木の家で「黒船」を聞いた。
 荒木の姉さんが持っていたのだ。
 ロックなサウンドの中にフォークが混在してた。
 デレク&ドミノスや、フリートウッドマックのアルバムみたいに。
 「もしも、もしも、もしも」が好きだった。

 つづく。(今日の語りは「プロジェクトX」調です)

2009年10月18日日曜日

画家のノート

 大学生の頃。
 バイトでお金が貯まると、普段買えないモノを買った。
 ‘白もの’と言われたみすず書房の本だ。
 当時、尊敬してやまなかった20世紀フランスの巨匠
 アンリ・マチスの「画家のノート」。
 5千円もした。でも嬉しかった。

 「意識的に習得した事柄は、ある種の豊かさを持って
 自分自身を無意識に表現することを、
  可能にしてくれます。」
 「わたしはあらゆる影響を怖れない」マチス

 ライバルはと聞かれると、いや実は誰も聞きはしないのだが、
 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と答えることにしている。
 例外なく笑われる。実はホッとする。「やっぱり・・。」とか言われたらむしろ怖い。
 じゃあ冗談なのかと、言われれば半ば本気なのである。あとはピカソとか。
 キチ、いや誇大妄想狂なのだろう。
 いや、間違いなくそうだと言える。
 けれど、芸術家と言われるほとんどの人はそうなのではあるまいか。 

 だが、日本の画家、例えば俵屋宗達には敵わない気がしている。
 これはレオナルドより宗達が上だとかそう言うわけではない。
 同時に、中学校や高校時代の美術教師だった恩師にもまだまだ及ばないと思う。

 けれど「オレは世界で5本の指に入る芸術家だ」とか言ったりする。
 日本では5本の指に入らない。矛盾している。
 これは、モツ焼き「百薬の長」で飲み友達の「なかちゃん」こと
 中田さんの受け売りだ。
 だけど、確かにそんな感じもしているのだ。

 ピカソや、マチスには敵わなくても
 ドンキホーテのように闘いたいのだ。

 「君の愛を伴い、君の想像を伴って、君の孤独の状態へ赴け。
  私を見よ。自らを超えて創造しようしようと欲し、
  かくして滅びるものを、私は愛する」ニーチェ

2009年10月17日土曜日

音楽寅さん

 桑田佳祐のミュージックタイガー。
 以前のも面白かったけど、今回も良かった。終わったちゃったけれど、ビデオで見ている。

 お気に入りはラーメン屋「フォーク軒」のフォーク特集。
 遠藤賢司の「カレーライス」フォーククルセイダース「あの素晴らしい愛をもう一度」
 ベッツー&クリス「白い花は恋人の色」吉田拓郎「結婚しようよ」。どれもいいなあ。

 以前の寅さんでは「網走刑務所慰問」の時にフォーク特集でライブしてた。
 泉谷しげるの「春のからっ風」を聞いて、改めて泉谷のCDを聞いたりした。
 ロックもいい。ジャズもクラシックも歌謡曲、演歌も好きだ。
 けれどやっぱりフォークはすごく好きだ。

 中学生でビートルズに夢中になってた時。日本の歌はフォークばかり聞いてた気がする。
 仲の良かった直登くんの姉さんが岡林信康のベスト盤を持っていた。それを借りて聞いた。
 「ガイコツの唄」「流れ者」を聞いて放浪に憧れた。まだ中一の時だった。
 同じ時期に時々車で遊びに連れて行ってくれる、親戚の筆屋の兄さんのカーラジオから、
 五輪真弓の「少女」が流れて、衝撃を受けた。
 「悲しそうに、見ていたの。夢が大きな音をたてて、崩れてしまったの。」
 この唄は子ども時代の夢が壊れて、大人になる瞬間が唄われている。
 
 飲み友達の文学者岩井さんに、「ブログの文章は、見られることを相当意識してるな。」
 と言われた。当たり前田のクラッカー。(痛い)だって意識しなかったら、シロウトの僕は
 暴走して下ネタに走るかもしれないし。

 そういえば、「あおいくんと佐藤くん」大石吾朗のコッキーポップ」「オールナイトニッポン」
 それらを聞いて洋楽もフォークも聞いて憶えた。清志郎の「トランジスタラジオ」みたいに。
 ‘あのねのね’のオールナイトニッポン、面白かったな。
 フォーク特集を聞くと、記憶の函のフタが開くみたいだ。

2009年10月15日木曜日

円環の廃墟

 軍艦島へ行ってみたい。
 近代日本の繁栄とその崩壊が、端的に現れているからだ。

 仕事で毎日のように新宿に通っているが、高層ビル群が廃墟になっているところを夢想する。
 2006年の個展「レクイエム・怪獣と巨大ロボットシリーズ」では、人間のいない世界で
 人間の創造物である怪獣と巨大ロボットが、人間のために「レクイエム(鎮魂歌)」を唄ってる
 そんな世界を表現した。

 廃墟ブームは以前から密かにあったが、映画「千と千尋の神隠し」の冒頭部分、
 廃墟になったテーマパークの描写によって火がついたように思う。

 ラテンアメリカ文学の巨匠ボルヘスの作品に「円環の廃墟」がある。
 ボルヘスを読むようになったのは、古い友人であるI氏が「読んでみてください」と
 貸してくれたからだ。
 
 こんな短編があった。
 主人公は周りに存在する天使達が、実は実体のない存在であることに気づく。
 しかし最後に彼自身がその天使達と同じ実体のない存在だと気づくのである。

 フィリップ・ディック原作の映画「ブレードランナー」でも
 主人公が実は人間ではなく、人造人間ではないのかと思わせる。
 人造人間はねつ造された過去を持つ。
 
 考えてみれば、過去は物語のようなものだとも言える。
 僕たちは、過去を振り返る度に過去の物語を新たに創り出しているのだ。
 しかし、自分の過去に何一つ確信が持てなくなったらそれは怖いことだろう。

 「去年マリエンバードで」と言う映画では、主人公の女性が見知らぬ男性に
 「去年マリエンバードで会いましたね?」と尋ねられ、最初は否定する。
 しかし何度か同じ質問をされている内に確信が持てなくなってしまう。

 I氏からのメールを読んでそんなことを思い出した。
 

2009年10月13日火曜日

やっぱり、まんま!

しろめしが好きだ。
麺も好きだが、同じ麺を365日食べたいとは思わない。
パンも悪くない。でも頑張って一日一回が限度かな。 

そう考えると、白米の偉大さが分かる。
毎日OK。一日3度でも全然かまわない。
刺身に合うのは日本酒だが、
もっとあうのは白米だ。
魚の旨味がより豊かになる。
寿司でなくても、白米で充分。

生まれが新潟県小千谷市。つまり魚沼地方である。
けれど自分では米の味にうるさいと思ったことはない。
それでも魚沼米は旨い。

高校時代の友人、小酒井くんが今年もお米を送ってくれた。
勿論、魚沼米の新米だ。
小酒井くんが知り合いの小千谷の農家から
直接買ったものを送ってくれているのだ。
美味くないわけがない。ありがたい。

たぶん、大学生の頃。車で長岡市の郊外を走っていた時、
巨大な看板を田んぼの脇道で見つけた。
そこにはアントニオ猪木そっくりのイラスト。
ランニングシャツ姿で、右手に箸、
左手には白米の入ったお茶碗。
そして大きな文字で「やっぱり、まんま!」。
端っこには長岡農協青年団の文字。
昔はこんなローカルな手作り看板を時々見かけたものだった。

友人の室橋くんと秋田を旅した時の事、
細い道の脇に「ドライバー、脇見をしても美人なし」の立て札。  
暫く行くと「美人多し。注意!」。
ともに地元の青年団作である。

「まんま」とは魚沼方言で白米のことである。
詩人の高橋睦夫氏は雑誌で「日本人の歴史は、
白米に対する憧れの歴史だった」と述べていた。
そしてこう続けている。毎日食べられるようになって、
お米に対する愛情が醒めてしまったと。
ちょうど結婚によって恋愛感情が醒めてしまうように。

「最後の晩餐」に何が食べたいか。
僕は迷わず答える。「菜飯」と。
「菜飯」は食用に作られた、大根菜を塩茹でにしておく。
それを冷飯と炒めるだけのチョーシンプルな料理。
味付けは塩胡椒にお好みで醤油を少々。
これが美味い。
 
あー、菜飯が食べたくなった。
でも、食用の大根菜って東京じゃ見かけないしな。。

「ぽろぽろ冷飯ぽろぽろ秋寒」山頭火

2009年10月12日月曜日

晩年

 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

 子規の「病床六尺を読み終えた。
 私的な日記かと思ったら、初めから新聞「日本」に掲載する目的で書かれたとのこと。
 結核のため、下半身が不自由で動くことがままならず、病床から離れられなかった、
 子規のまさに晩年の手記である。
 子規は35歳の誕生日の直前に亡くなった。彼の30代は病床の中にあった。
 苦痛に身悶え、時折愚痴を吐きながら、彼の文章に迷いが感じられない。
 「今度の春を迎えられだろうか。」そう思いながら、子規は句を歌を、絵画を、芸能、風俗を
 食べ物を、そして文明を語るのだ。平明でありながら、言葉に強さがありイメージの輪郭が
 とても明確に感じる。彼には死を前にした覚悟があり、残りの人生で何かを成し遂げようという、
 強烈な自我と自信があった。
 それが冒頭の有名な句を生み出したのだろう。

 人は何時から晩年を意識し生きるのだろうか。
 太宰の初めて出版された小説集のタイトルが「晩年」だった。
 友人のI氏から個展前に頂いたCDがブラームスの「晩年」だった。
 彼らは若くして自分の晩年を意識したのであろうか。
 人生50年と言われた頃は、それを意識し易かったのだろうか。
 
 40歳で亡くなったジョン・レノンは、ビートルズが解散してからが晩年だったのか。
 まさか。でも「亡くなる前に創られた、アルバム「ダブルファンタジー」の頃の
 ジョンを写真やインタビューで見ると晩年の老成した人のように感じられる。
 たぶん、思いこみだろうけど・・。

 時々、この人生でやりたいことはみんなやった、そんな傲慢な思いに囚われることがある。
 もちろん、やりたいことはあるし、行って見たいところ、経験したいこと、食べたいもの
 もある。けれど、若いときのようにそれらを渇望するような、激しさがなくなった

 版画家作田富幸くんの個展に出掛けた。3月に僕が個展をやった松明堂ギャラリーだ。
 作田くんの個展には、何度か出掛けている。近年、文化庁の給付でオランダに行ってから
 作品が良くなったなと思った。その前の作品にも立派なものが勿論あったが。
 今回の展観は、非常に緻密でシュールな銅版画作品に加えて、ボックスアートの作品や、
 版画作品の奇妙な人物群を拡大して、立体的にインスタレーションてされた作品など面白かった。

 矛盾するようだが、自分の残り時間を意識し始めて、逆にあまり無駄なことをしたくないなとも
 思うようになった。本当にやりたいことをやりたいし、良いものを見たり、聞いたり、読んだり
 したいと思うようになった。バラエティ番組も面白いのは見ているけれど。

 「かたみとて何か残さむ春は花山ほととぎす秋はもみじば」良寛
 
 

2009年10月11日日曜日

吉井宏の会

十数年前、2度目の個展の時のこと。
見知らぬ男性がこう言った。「よしいさんですか?」
「はい。そうですが。どちら様ですか?」
 「こういうものです。」
 
と男性は一枚の名刺を差し出した。驚いた。
 

名刺には「吉井宏」と書かれていたからだ。
名前の脇に小さくイラストレイターと書かれていた。
「‘ぴあ’に同じ名前の人間が個展をしているのを見つけて、
気になったので来ました。
変な絵だといやだなーと思って・・。でもこれならいいです。」
それがイラストレイター吉井宏さんとの出会いだった。

吉井さんは、CGつまりコンピュータグラフィックで描く
イラストの世界で超有名な人だと知った。

のちに僕は芸術家としては「よしいひろし」と
ひらがなで名乗るようになった。
イラストレイター吉井さんとであったこと、
尊敬するイラストレイターたむらしげるさんにあやかったこと、
そしてひらがなは日本文化の中核である思ったこと、
以上三つの理由からである。

それにしても同姓同名の人が
同じ美術の分野にいることに驚いたが、
実はもう一人美術関係にいた。
造形教育体系シリーズで
「美術教育」について書いている吉井宏さんがいた。
まだいるかもしれない。
この日本に吉井宏という名前で創作活動をしている人が
他にもいるかも知れない。
そうしたら、全国吉井宏の会を立ち上げよう。
妄想は広がるばかりである。

 
それから10年以上たった、
新たな吉井宏の発掘には至ってない・・・。

2009年10月10日土曜日

LET IT BE

 LET IT BE は事件だった。
 それは小六の時だった。同級生の正敏くんがスキー授業の時、足を骨折をした。
そして見舞いの品としてビートルズのレコードを、父親に無心したと言う。

 それが巡り巡って、僕の処に来た。貸して貰ったのだ。
 それまでの音楽と違う。その当時家にあったレコードはドリフターズとか歌謡曲だった。
 ビートルズの音楽は脳に痺れた。小学校の校門前の坂を上がりながら、大きな声で唄った。
 「レルビー、レルビー!」と。

 浦沢直樹のマンガ「20世紀少年」。あの名作の中でも、それまで原っぱの秘密基地を
 喜んでいた少年達の一人がロックに目覚める場面が描かれいる。

 LET IT BE によって僕の青春時代が幕を開けた。そう思う。
 
 

2009年10月9日金曜日

BACK STREET BOYS

 Back Street Boys を聴いた。
 「笑っていいとも」でだ。

 歌は上手い。キャラクターも面白い。ポップスターとして言うことはない。
 その後で、改めて聴いた。音楽だけを。アレンジもいい。
 メロディーラインもきれい。しかしだ。あえて苦言を呈す。
 曲構成は単純だ。単純が悪いではない。ロックやポップスは単純さの中に
 面白さがある。けれど、その中にある種の過剰さ、過激さ、変化が欲しい。
 例えばパーカション。打ち込みの音みたいで変化がない。
 手触りというか、マチエール(質感)が乏しい。
 ビートルズは質感が尋常でない。それが彼らを非凡なものにしていると思う。
 まとまりが良すぎると、変化が乏しくなる。絵でも同じである。

 今日はジョンの生誕69周年だった。
 

2009年10月8日木曜日

東京日和

 抽象美術がある。
 ストライプだけの絵画や、四角い箱の彫刻。
 感情移入がしづらく、一般的に何が描いてあるの?と揶揄されたりするアレだ。

 画家ゴーギャンは「芸術とは一つの抽象である」と言っていた。
 具象的な作品でも、「花」とか「人物」のようにイメージが特定できるだけで、
 イメージは様式化され抽象化された線や形、色に還元されているからである。

 それでも再現的表現(具象)と非再現的表現(抽象)に分けることは出来る。
 ホームページを見て頂くとわかるが、僕も大学在学時から10年以上抽象画に
 取り組んできた。抽象美術は普遍性を目指す。ピラミッドが良い例だ。
 具象美術は個別性や現象を現す。
 敬愛する写真家、荒木経惟氏は「写真はセンチメンタルでいいんだよ」と言う。
 「センチメンタル」。抽象では難しいかもしれない。ポロックの成熟した絵画に
 おいては叙情性や感傷性(センチメンタル)が表されていたけれど。

 20年来の友人でビデオアート作家の浦崎勲さんから、作品集が届いた。
 1980年代に制作させたものを再編集したとのこと。
 ビデオアートは当時の最新技術だったビデオカメラ、デッキを使った映像作品である。
 浦崎さんの作品を見ていて、抽象と具象のことを改めて考えたのだ。
 カメラが映し出す映像は具体的である。それは1980年代の空気をストレートに伝えている。
 しかし、主題となっているのは普遍的な問いかけだと感じた。
 そして画面構成の造形スタイルは、ミニマルアートかと思えるほどシンプルで禁欲的だ。
 浦崎さんが、新しい作品に取りかかるとの言葉を嬉しく思った。

 子規は「写生」の重要性を説いた。「写生」より「観念」が重要とする文壇に異を唱えた。
 それでも、くどくどと描写するのでなく「簡素さ」「簡略のよさ」も認めていた。
 抽象と具象、客観と主観はともに必要なのだ。

 アラーキーは「センチメンタル」も「エロス」も表現する。「美」と「醜」の境界も希薄に感じる。
 大切なのは、自分にとっての「エロス」と「タナトス」を感じさせるものだろう、と思う。

 「どうしようもないわたしが歩いている」山頭火

 

2009年10月7日水曜日

プロントくんの冒険

 アニメーションを作っている。
 完成したら、1分くらいのミニミニアニメだ。
 タイトルは「プロントくんの冒険」。恐竜のプロントくんが、大海原を旅して人間の世界にたどり着く。
 
 アニメーションの制作は10年来の夢だった。
 抽象画の制作に一区切りつけたら、プロントくんが生まれた。
 続いて現れた「あくまくんと天使」シリーズの時、アニメのラフを初めて描いてみた。
 大学時代の友人で、「ドラゴンボール」「ワンピース」の作画監督を務めていた山室くんに見て貰った。

 アドバイスを貰ったが、実現しなかった。「キャットくんとふしぎなプール」の時は、アニメ専用紙に
 下描きまでした。でも断念した。絵本を完成して自費出版するだけで、精一杯だった。
 アニメーターでイラストレーターのたむらしげる氏に絵本を送ったら、アニメにしたら面白そうと
 返事をいただいたのに、だ。

 今度こそ完成するメドがたった。気負わずにモノクロのミニミニアニメでいいと割り切ったからだ。
 まだ撮影はしていない。絵は7割方完成している。次回の個展での上映や、ホームページでの
 公開も考えている。

 考えてみれば、最初に感動した映像作品は「鉄腕アトム」「鉄人28号」「8マン」だった。
 夢中になって見て、それらを繰り返し描いた。今でも100枚を超える保育園時代の作品がある。
 今と描いている内容があまり変わってないことに気づいた。

 僕のプロントくん、キャットくん、ロボットや怪獣はそれらのアニメに対する憧憬から
 生まれたに違いない。

2009年10月5日月曜日

人間だもの

 水道橋博士はブログの先達だったと聞いた。
 毎日ブログを書いても、反響は少ない。インターネットは割に合わないと
 嘆きながら毎日書き続け、今は人気のサイトと聞く。

 高校時代の友人小酒井くんからメールが来た。このブログについてだ。
 「オメさんはしゃべりと行動はケダモノらけど、文章は紳士らいね~」と。
 褒め言葉と受け取ったけど、反省した。
 もおちっと、勢いが足りんがらなーーーーと。(越後弁)

 スピッツの歌が好きで、時々聴いている。
 マサムネの詩はケダモノを人間より賛美しているように聞こえる。
 「汚れない獣には、戻れない世界でも・・」など。
 ケモノは高貴だという考えを背景に感じる。

 同僚だった友人達を主人公に、「ケダモノだもの」というエッセイを以前書いた。
 「日本に今必要なのは、ケダモノではないか」と書いた。

 チャップリンは「殺人狂時代」でこう述べている。
 「一人を殺せば殺人だが、百万人を殺せば英雄になる。
 数が行為を神聖化するのです」

 しばし考える。人間らしさ、ケダモノらしさとは何なのだろうかと。
 ゴーギャンが南の島で追い求めたのは、野生の持つ高貴さではなかったのか。
 
 「よこしまな僕も本当の僕」よしい
 
 

2009年10月4日日曜日

1Q84

怖い夢を見なくなった。

 
実際には今でも見るのだが、
すぐに夢だと気づく。
そして「もう起きよう」と決意し怖い夢は終わる。

昔は怖い夢から起きることは難しかった。
目が覚めても、夢の中にいるような気持ちだった。
何度も何度も見た夢がある。

夜、知らない家の知らない部屋に入って行く。
人は誰もいない。
そして行きたくない暗い部屋へ向かうのだ。
最後に真っ暗な部屋に入って夢は終わる。

今考えれば、真っ暗な部屋は自分の
無意識の世界だったのだろう。
そしてよく考えれば、勝手に暗闇を恐れているだけで、
夢の中で危害に遭っているわけではない。
 

落ちる夢を見る人がいる。
ボクは見た記憶がない。
落ちる夢も落ちてどうなる訳でもないのに、
勝手に落ちていることを怖れている。
恐怖のほとんどは恐怖を感じる人の
心が生み出しているのだろう。

村上春樹の「1Q84」を読んだ。面白くて一気読み終えた。
パラレルワールドは先端物理学の世界では、
想定されていると、テレビ番組で見たことがある。
夢の世界はパラレルワールドみたいなものかも知れない。

故事に「酔生夢死」がある。とても好きな言葉だ。
高校時代の参考資料では「つまらい生き方」
などと書いてあったが、酔ったうように生きて
眠ったように死ぬならばそんな幸せはないと思う。

戦国時代の武将、上杉謙信も辞世の句で
自分の人生は「酔生夢死」だったと書いている。
当時そのような考え方が流行っていたと、新聞で読んだ。

でも、夢と現実の区別が本当につかなくなったら、
それは悪夢そのものだと思う。

 「遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の中。」清少納言

2009年10月3日土曜日

所沢ビエンナーレ

 先月のことだが、所沢ビエンナーレ「引込線」を見た。

 会場は西武鉄道の旧車両場。標準的な体育館の数倍はある建物がいい。
 天井が高く、長い線路がそのまま残っている。
 ちょっとレトロな外観・内観は、「工場萌え」の人でなくてもある種の感慨に浸るはずだ。
 現代美術の著名な作家が多く出品している。

 マチエールという美術用語がある。仏語で普通は「絵肌」の意味である。
 例えば、ある絵画を指して「磁器のように滑らかなマチエール」などと言う。
 絵画は平面でありながら、豊かな表情を持った絵肌が必要とされる。
 立体や彫刻作品でも当然である。
 日本でも鎌倉時代の仏像に意図的なノミの彫り跡を残したものがあるし
 焼き物などを見ると、画一的なつるっとした肌合いを好む西洋と比べ東洋、
 殊に日本ほど、焼き物の肌合いに拘った文化はないだろうと思う。

 美術には官能性と精神性(宗教にも似た)の二つが、その表現の中に求められる
 と考えている。仏像がそうだろう。宗教的な崇高さの中にエロスが現されている。
 エロスとは「性」だけでなく「生」そのものだと思う。

 現代美術の多くが観念的に偏りすぎてしまっているのかもしれない。これは自戒も込めてである。

 「引込線」の中で、二つの作品に惹かれた。
 一つは200号くらいの油彩の抽象画。もう一つはタペストリーを用いたインスタレーション作品。
 いずれの作品としての明確なイメージや佇まいを持ちながら、表情豊かなマチエールを感じた。

 大リーグのイチローじゃないけど、一見凡庸に見える繰り返しが重要なのだ。
 職人的な技術の積み重ね、それだけが偉大な記録や表現へ至る道なのだろう。
 「歌を忘れたカナリヤ」は、再び歌を学ぶしかないのだ。

 「才能なんて、クズの積み重ねだ」ジョン・レノン

2009年10月2日金曜日

ディア・プルーデンス

ビートルズが、ジョン・レノンがこの世に、
同じ時代にいてくれて本当に良かった。
しょっ中ではないが、時々そう思う。
ビートルズには借りがあるなと。

天気の良い、爽やかな日。
そんな日には頭の中をディア・プルーデンスが鳴り響く。
「良い日だよ、プルーデンス。出ておいでよ・・・。」
ジョンが唄う。

高校時代、豆腐屋の清人くんと二人組のユニットを作り、
文化祭で演奏した。
 曲はビートルズのアコーステックなホワイトアルバム曲。
「ジュリア」や「アイウィル」など。

「泣け。赤子よ、泣くんだ。母さんにため息をつかせるんだ・・」
ジョンのつもりで唄う。
郷里片貝町の裏山で町を見渡しながら、
反対側に沈む夕陽を見ながら、
ビートルズを口ずさんだ。
ビートルズにも清人君にも敵わないから、
今でも音楽は趣味だ。
それでも高校時代に、絵を描きながら迷った時は、
ジョンの言葉を呪文のように唱えた。
「本来的な才能とは、自分に出来ることを信じることだ」

東京での浪人時代は、寅さんだった。
予備校の帰り、夕陽を見ながら口ずさんだ。
「奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙のおー、
今日も涙の陽は落ちる、陽わあーーー落ちる・・・。」

 


 

いせや

 いせや公園店はいい。

「いせや」は東京吉祥寺にあるモツ焼き屋である。
本店は建て替えとなったが、 公園店は築50年の風情がある。しかも目の前は井の頭公園。
店内は増改築を繰り返したことが、一目でわかる。
二階まで吹き抜けの店中央に
天井の低いテーブル席、入り口にはカウンター席、
公園側に座敷。
夏は吹き抜けの中央テーブル席の窓際で、
色濃く茂った青葉を肴に生ビール、
春秋冬は座敷席で、やはり公園を横目で見ながら、
日本酒か焼酎を飲みたい。

数年前、亡くなったフォークシンガー高田渡氏を
何度か見かけた。
高田氏は酒で赤くなった目をギラギラさせて、
店の外の立ち飲みカウンターで焼酎を飲んでおられた。
いせやのモツ焼きは取り立てて美味という訳ではない。
けれど、酒飲みには堪えられない
昭和の居酒屋の雰囲気が充満している。

日本酒のぬる燗が嬉しい季節となった。

「白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」
 牧水