2014年1月30日木曜日

「よこしまな僕」 第一句集

「自分」
厭なこともつまらないこともぼくの人生
こんな俺を責めない俺は偉い
よこしまな僕もほんとうの僕
どうしようもない脳天気でいよう
自嘲なんかしないすぐに自嘲する
いい気になっているもっといい気になろう

「酒」
反省などしない串の数を眺めながら呑む
酒匂ふ脳みそで想い出している
酒が好きなのか呑まずにいられないのかわからない

「生きる」
ただじたばたと生きる
ドキドキとわくわくの狭間を生きたい
ひまつぶし人生の方をつぶそうよ
死へ向かう我と我が身は生きている

「日常」
退廃も虚無さえもない二十一世紀
電車の中の声も姿もまぼろしなのか
退屈という日常の檻に隠れている
一瞬ごと一瞬だけを信じている

「季節」
雲はなく影もしづかに日曜日の朝
なんだか今朝は墓石も輝いて
黄金の粉をふりまく日暮れかな

「真理・道徳」
ぼくの神はぼくの中にいる君の神は君の中にいる
道徳は天使のような悪魔のささやき
人類みんなナルシスト
神は神で人は人で精いっぱい

*第二句集の予定はまったくありません

2014年1月18日土曜日

ばかっ、うんめぇのっし! (凄く、美味しいですね)

オラはふだんは標準語(厭な言葉らの)で話すども、
地元んしょ(新潟県中越地方の人たち)としゃべる時は、
ぜってぇ、方言で話すがらて。
*注「がらて」は「ですよ」「がら」は「です」接尾語の「ら」は「だ」

話す時らけらなくて、メールもめんどして方言にしてるがですて。(います)
なしてかと言うと、オラは自分が新潟の田舎もん(者)らということに
こって(とても)誇りに思ってるすけ。(ので)

言葉は文化ら。
グローバルな時代らとか、ゆうとるども
そらけば(そうなれば)、尚更自分らが居る場所が、
いってえ(一体)何がらかが、大事になるとオラは思う。

あっ、話がそれてしもた。
こないさ(この前)喰った、ロールカステラケーキ。
ばか、うんめぇかった。
オラの実家がある、新潟県小千谷市片貝町。
隣の長岡市越路町。駅前の洋菓子屋さん「本條屋」

オラは近くのこの店を知らんでいた。
しかも(だいぶ)前、友達の小酒井がオラ家に来て、
「食うてみれや」と渡してくいたがが、(くれたのが)
本條屋のシュークリーム。
たまげた。(驚いた)あんま(あまりに)旨くて。

オラも行ってみたけば、
シュークリームを頼むと、いっつも待たさいる。(される)
変らと思ってたけば、
シュークリームは注文を受けてから、
中のカスタードクリームを入れてるがらと。

オラは普段は、洋菓子をあんま喰わねー。
どっちかと言えば、和菓子の方が好きら。
だども、ここん家(ち)の洋菓子は別ら。

東京んしょ(の人達)にも喰わしてくいたけば、(あげたならば)
「まっで(とても)違う!」と標準語で言ってたて。
値段を教えたけば、尚更たまげてた。(驚いてた)

新潟にはうんめぇもんが、いっぺことあるの。
困るがは、つい喰いすぎてしもて(しまって)
太ることらの。
まあ、いいかの。
ばかっ、うんめんだの。

2014年1月16日木曜日

ヴォルスの言葉 -大岡 信 編・訳ー

「反映集(ルフレ)」

カッシでにこと、石や魚
ルーペで見た岩
塩の海、そして空が
ぼくに人間の重要性を忘れさせ
こせついたぼくらの挙動に
背を向けさせ
港のさざ波の中に
永遠を示してみせた
あの繰り返すことなしに
繰り返している波の中に

ぼくの黄色い犬は 夜になるといきいきとする
うるさいほどにはしゃぎまわる
眠りながら考える
かれは知っている すべてが同じだと
あしたの夜と同じだと

むだなことだ
神を名づけたり
ものごとを完全に知ろうとしたりすることは
見るときは 見ているものを利用することに
夢中になったりするべきではない
あるものをあるがままに見るだけだ

統一へ、美へ、そして空へ
向かっている一本の道が見えているとき
ものの細部の重要性は失せる
でもそれらは いぜん魅惑的だ

ぼくがどこかへ到着するときぼくは眼に見えないくらい小さな
カバンを持っている
さてまた出発するときは いつでもトラックが必要だ

すべての愛はただひとつの愛に導く
ひとりひとりの愛の彼方に
無名のひとつの愛がある

いまだに成熟しきれない
白人種というやつが
ヨハン・セバスチャン・バッハのような賢人を生んだということは
これは奇蹟だ

個人的な祈りは祈りではない
ほんのひとことの祈りでも
宇宙を所有することができる
祈りを体操と混同するな
祈りはどんなものでもありうるし
どんなものにも祈ることはできる
それがほんとの祈りでありさえすれば

武器をもたない臆病者のほうが
武器を手にした臆病者より好ましい
武器をもつということ自体臆病なのだ

ぼくが夢見るすべてのことは
とても大きい とても
美しい未知の都市で起きる
広大な場末の町々 そして海
ぼくにはとてもスケッチできない

一瞬ごと
ひとつひとつのもののなか
永遠はそこにある

言葉はカメレオンだ
音楽は抽象的である権利をもつ
どんなものでも説明できない体験は夢に導く
音楽を説明するな
夢を説明するな
つかみ得ぬものすべての中に貫流している
すべてのものが韻を踏むのを知らねばならぬ

2014年1月9日木曜日

神の数式

なぜ、唯一の絶対神が生まれたのか?
それは太陽信仰と結びついていると言う。
太陽は天空に一つしか見えないから。

なぜ、太陽信仰が生まれたのか?
それは約1万年前に、氷河期が終わり農耕が始まり、
種撒きの時期を知るために暦が必要になったからだ。

でもそれだけでは不十分だ。
太陽信仰は世界各地に存在するが、
一神教は中東地域でしか生れていない。
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教がそうだ。
砂漠地帯という地勢上の特徴と関係があるのか。

中国や日本、中南米などでは一神教にはならなかった。
太陽信仰の前は大地・地母神信仰が主流だった。
古代ギリシャ・古代ローマの多神教は、
自然の分類(天地・海・太陽・川など)や、
生産物・文明・権力(酒・鍛冶・軍事・伝令)と結びついている。
日本でも八百万の神は同じような対応を持っている。

現代の理論物理学はビッグバンの秘密に、
かなり肉薄しているらしい。
ビッグバンの秘密は「世界の始まり」を
解き明かす鍵と考えられている。
その数式は「神の数式」と呼ばれいる。

「神の数式」=唯一の原理=絶対神や一神教に結びつくのか。
なぜ「神」の名前を冠するのか。
ホーキング博士もそのような原理を
「神」と呼びたいと語っていたそうだ。
神の名前が必要なのか。

難しいことは良く分からないけれど、
物理学の世界は、仏教の世界観に近しく感じる。
現実や過去・現在・未来などの時間の概念の不確かさ。

「天国なんてないと思ってごらん。
私たちの下に地獄はなく、頭上にあるのは空だけ」
ジョン・レノンの“Imagine”だ。

「報いぞと見るは愚かの心なり。良きことにつけ、
悪しきことにも」一休

「運命」や「神の意志」には、
人間と同じような意識を持った「人格神」が想定されている。
そこには常に「目的」や「意味」が投影されている。
人は「無意味」に耐えられないからだろうか。
そもそも耐える必要などないのではないか。
私たちは、笑ったり泣いたりする。
そこに意味づけは必要なのだろうか。