2014年8月18日月曜日

ビリョクだけどムリョクじゃない

長崎、原爆の日の追悼式典。
市長が紹介した長崎県高校生の言葉。
「ビリョクだけどムリョクじゃない」
力づけられる言葉に、少しだけ涙した。

オバマ大統領が就任直後に
「世界の核兵器の廃絶」を訴え、
核軍縮が進むかに思われた。

しかし核兵器は無くならないどころか、
保有国の拡大が懸念されている。
日本でも、「核兵器の保有を」と
主張している政治家もいる。

福島原発事故で産み出された、
放射性廃棄物の仮処分場が問題になっている。
候補の自治体は、反対の声を上げている。

国会議員宿舎を廃止して、
その跡地に大きな地下貯蔵庫を作ったらどうか。
あるいは東京電力本社に保存所を建設する。

暴論と言われるだろう。
あの地域の住民なら激怒されるだろう。
では、何処に保存したら暴論ではないのだろうか。

政治家や官僚や東電が「絶対安全」な
仮処分場を作ろうとするならば、
都心こそが相応しいのではないか。
自分たちがリスクを背負わずに、
どうやって細心の「安全」を目指すのだろうか。

フィンランドの電力会社本社は、
原発の隣に建てられてるのを、
テレビで見て少しだけ感心した。
自分たちがリスクを負っているからだ。

フィンランドには「オンロカ」と呼ばれる
核廃棄物の最終処分場も建設されている。

日本では最終処分場の候補地すら未決定で、
あらゆるリスクは先送りされ、
未来と地域に負担を強いる。

核兵器廃絶の署名を集め、
各国の高校生と交流を試み、
核保有国へ手紙を書く、
長崎県の高校生の取り組み。

「ビリョクだけどムリョクじゃない」
に見習いたいと思った。

2014年8月6日水曜日

朝日のような夕日をつれて

鴻上尚史の本、
「孤独と不安のレッスン」を読んだ。

手を取る前にちょっとだけ躊躇した。
齢55歳にもなって、この手の啓蒙書は恥ずかしいかなと。
でもちょっと読み始めたら、想像以上に面白かった。

「本物の孤独」と向かい合うことの重要性、
「前向きの不安」は自分を成長させるなど、
当たり前のことだけど、なるほどなと思った。

日本では『世間』が西洋の神のような存在であり、
日本ほど世間による『同調圧力』の強い国はない。
「同じような存在」であることを強いる文化だということだ。
この「同調圧力」が日本社会を、
息苦しいものにしていると、鴻上氏は書く。

ただ八百万の神が居て、
神仏混淆もこの国の文化の姿である。

西洋文化、特にキリスト教プロテスタントの持つ、
「神」⇔「個人」という関係性は、
強力な「垂直圧力」を持つ文化を生んだと考えている。
その点についての鴻上氏の考えが知りたかった。

17年ぶりの公演となる、
「朝日のような夕日をつれて」を観に、
新宿紀伊国屋ホールへ友人と出かけた。
受付の脇にはいつものように、
鴻上氏が立っていた。

仏劇作家ベケットの「ゴドーを待ちながら」
神なき時代の不条理を描いた物語らしい。
鴻上氏が「ごあいさつ」で書いているように、
ベケットの戯曲が「朝日のような夕日をつれて」
の下敷として存在している。
「孤独と不安」もこの芝居の
重要なテーマとなっている。

33年前の早稲田大学構内テントで旗揚げされた、
劇団第三舞台の「朝日のような夕日をつれて」を観ている。
メンバーは友人の大高以外入れ替わっている。

それでも今年の3月に見た、
ローリングストーンズのライブみたいに、
年輪を重ねた、作演出と役者、スタッフによって、
この度の「朝日」も素晴らしい舞台だった。

2014年8月4日月曜日

すべての人の心に花を


 
早咲きの秋桜が真っ盛りだ。
オレンジ色が涼しげで良い。
桔梗の薄紫も大好きだ。
 
小ぶりな向日葵は夏らしくて良い。
百日紅は薄いピンクが良いと思う。
年々歳々花相似たり。
歳々年々人同じからず。
 
花が何故あのような色彩を持ったのか。
現代ならば遺伝子の掛け合わせも出来る。
しかし、そもそもどうやって色彩を得たのか?
それは現代の最新の生物学でも不明らしい。
 
全ての植物は、葉緑体と呼ばれる
組織を持っている。
この葉緑体が、太陽のエネルギーと
二酸化炭素を酸素に変えている。
いわゆる「光合成」だ。
 
二酸化炭素の排出量の制限は必要だろう。
でも排出権の売買は如何だろう。
排出規模に応じて、
それぞれ植林や緑化を義務付けたらどうだろうか。
 
東京や全ての都市が緑化したら
世界の風景は一変するだろう。
そして争いごとも、
少しは減るような気がするのだ。
 
「伸びるより咲いている」山頭火