2013年4月28日日曜日

UFO現る

13年前の夏の夜、
赤城高原スキー場のゲレンデで、
UFOを目撃したことがある。

星の綺麗な空だったと思う。
夜空に星よりもずっと大きな光が現れた。
人工衛星か飛行機かなと思ったら、
瞬間的に光は消え、離れた処に現れた。
光は直角に曲がるような不思議な動きを見せ、
数秒してから、消えた。

その時ぼくは素面で、
回りには数人の知り合いが、同じ現象を目撃している。
あの飛行体は何だったのか、
未だに解らないし、これからも解らないだろう。

ただそれが宇宙船だとか、
宇宙人に遭遇したのだというような思いは、
当時も今も持っていない。
ただ未確認飛行物体を目撃したという、
それだけのことだ。

3年前に1年の計として、絵日記を書いた。
昨年は日課として、色んなものを毎日素描した。
物を素直にスケッチするという、
画学生のような初心に戻ろうと考えたからだ。

今年のテーマは「山水画」
引越して、ベランダからの眺望が良いことと、
物では無く、空間や精神世界を描こうと思った。
実際の風景や心象風景がほとんどだが、
四月に入って、風景に空飛ぶ円盤を描いている。
有名なアダムスキー型というやつである。

ぼくは宇宙船や宇宙人が存在するとか
しないとかにあまり関心はない。
心理学者のユングはUFOの発見に、
現代人の心の現れを見ているが、
神話なき時代の神話として、
UFOが存在していると考えたのだろうか。

ぼくの空飛ぶ円盤の絵も
単なる象徴として描いているだけだと思う。
でも、これがぼくにとっての、
新しい絵画シリーズの始まりになりそうな、
そんな予感がしている。

2013年4月21日日曜日

どうしようもない私が歩いてゐる

「詩人の散文はいい」
と週刊現代に書いたのは室井佑月だった。

彼女は田村隆一の本や
チャールズ・ブコウスキーの「街で一番の美女」を挙げていた。

確かに正岡子規の「病床六尺」なども名文だろう。
松尾芭蕉も「奥の細道」を書いている。
普段から少ない言葉で
自己表現を追求している詩人にとっては、
より長い散文の方が気楽に書けるのだろうか。

放浪の詩人、種田山頭火の日記。
何度か読み直している。
ほとんどが宿の様子、食事や値段、
同室や隣室の客の人柄などや、
行乞の具合、俳句の書き付け、
酒の失敗や健康の状態、
知人や支援者との出会いや句会、
果ては金の無心などが書いてある。
日記は書き終えると友人に保管を依頼した。

「私はまた旅に出た。
所詮、乞食坊主以外の何者でもない私だった、
愚かな旅人として一生流転せずに
いられない私だった、
浮草のやうに。(略)
水は流れる、雲は動いて止まらない。(略)
それでは、二本の足よ、歩けるだけ歩け、
行けるところまで行け。
旅のあけくれ、かれに触れこれに触れて、
うつりゆく心の影をありのままに写さう」
(昭和5年九月十四日の日記)

「一日の憂いは一日にて足れり」
キリストのこの言葉を見つけたのも
山頭火の日記だった。

「なんぼう考えてもおんなじことの草茂る」
新緑の時期は過ぎようとしている。

2013年4月7日日曜日

科学は不確かだ

ファイマン博士の名前も知らなかった。
ただ、本のタイトルに惹かれて読んだ。

ノーベル物理学賞を取った著者の
講演集のタイトルである。

ファイマン博士は言う。
物理学はとても不確かだと。
確かなことはわずかしかないと。
だから物理学者は「より確かなもの」を求めて、
日々研究に励んでいるのだと。

ツボに来た。
兼がね思っていたことだったから。
「数学の確かさを数学は証明できない」
と言ったのはゲーテルの不完全性定理だったか。
数学の正しさの多くは、
ある(特定の)条件の基でしかない。

博士は続けて言う。
この世の中は誤謬に満ちているのだと。
政治家の言うことも、
マスコミの言うこともほとんど正しくなんかないと。
それは科学の不確かさに増してそうだと。

よく「統計上は」なんて訳知り顔にテレビで言う。
その統計がどんなものか知りもしないで。
どれだけの信憑性があるのか知らないで。
愚かなぼくは、根拠の無い統計によく騙される

マツコと池上彰のトーク番組で
池上彰が、「PISAでの日本教育の凋落のウソ」
をあばいていた。
PISAはOECD加盟国の学力調査のことだ。
池上彰は、加盟国が増えて
日本のランキングは下がったが
日本の得点が減ったわけではないとコメントしていた。
これも見かけの順位に惑わされていた訳だ。

ファイマン博士はマンハッタン計画(米国原爆製造)
に関与していたらしいが、サボタージュしていた逸話もある。
その真偽は解らない。
彼はノーベル賞よりも
「物理学教育者」としての自分に誇りを持っていたらしい。
彼は大変なプレイボーイで
女性によくモテたなんて話も聞いたが、
不確かな情報である。

何よりも自分自身が不確かだ。
「不確かな」世の中で、
「絶対」の真理や、正義や、道徳にだけは
騙されないようにしたい。

2013年4月4日木曜日

日本とは何か 2

ずっと考えていたことがある。
日本文化の特色とは何か?である。

いかにヘボ絵描きとは言え、
いやしくも世界を相手に、自己表現として、
絵画を始め美術制作を続けてきた。
それなのに、自分のルーツとなる物を知らない、
これでは如何にも具合が悪い。
30代になってからは、
特に日本や東洋の美術をこまめに見てきたつもりだ。

しかし日本文化の核として、
いつも頭にあったのは
書き言葉としての「平仮名」「片仮名」
「漢字」「ローマ字」の4つを使うことである。

網野善彦氏の本で漢字は「真名」であり、
日本で創られた文字は「仮名」だと気付いた。
うーーーん。
ギリシャ半島を征服した後も、
古代ギリシャ語をラテン語と並んで、
公用語とした古代ローマ人みたいだ。
しかもあちらは二大公用語だが、
日本は真名(漢字)に対して、
仮名(仮の文字)と一歩引いている。

現代日本文化に欠くことの出来ない
「マンガ」と「アニメ」。
何故、日本で独自の発展を遂げたのか。

これは表意文字(つまり絵)である漢字と
表音文字(吹き出しは文字ですね)である
平仮名、片仮名を自在に組み合わせる、
日本の書き言葉の伝統から来ているらしい。

日本は江戸時代、封建制だった。
絶対王政による中央集権国家だった
フランスでは話し言葉も統一された。
日本では戦後のつい2,30年前まで、
隣の県の人との会話さえ不自由した。

それに対して書き言葉は、
江戸時代以前から、日本のほとんどの地域で通用した。

江戸時代の根付(財布・印籠などの帯留め)など、
小さく、可愛らしいものを愛でた。
同時に茶の湯に見られるような、
壊れかけた物、不完全な物、いびつな物を、
「詫びたもの」「寂びたもの」として愛でた。

日本文化は絶えず外国に憧れ、
外国を手本として追いつこうと努力してきた。
その結果、隣国である中国や朝鮮半島にも
見られないような、
独自の文化を産み出したのだと思う。