2011年4月29日金曜日

人生山あり谷啓

 目が覚めて辺りを見たら、
 見知らぬ駅にいた。

 西武新宿線の入曽駅だった。
 昨夜、新宿のハイアットホテルで宴会があり
 なみなみと注がれたバーボンのオンザロックが効いた。
 本川越行きに乗り、小平駅で拝島行きへ乗り換えの予定だった。

 知らない駅に降りたことで、少し動揺していた。
 酔いからは驚いたお陰で、だいぶ醒めていた。
 
 昔から鉄道に乗る夢を度々見た。
 実家の隣町が何故か海辺だったり、
 崖のような処を走る電車や、
 普段の通勤列車が辺境の地を走っている、
 そんな電車の夢だ。

 入曽駅に降りた僕は、
 一瞬、夢を見ているのかと疑ったほどだった。

 多少の乗り越しは、年に何度もあるが
 今度の乗り越しは、3年前に奥多摩行きで乗り過ごし
 御嶽駅の先の川井駅に降りた時以来だった。
 
 川井駅の周囲に人家はない。
 代わりにこんな貼り紙があった。
 「時々熊がでます。ご注意ください」と。
 
 隣の御嶽駅までが遠い。
 一時間近く歩いただろうか。その間人家はなかった。
 通り過ぎる車もほとんどなく、タクシーは皆無だった。

 漸く、御嶽駅に着きタクシーを呼ぶか思案していた時
 目の前をタクシーが通りかかり、慌てて止めた。

 たまに行く居酒屋「虎居」。
 トイレにこんなポスターが貼ってあった。
 「人生山あり谷啓」いかしてる。
 ガッチョ~~~~~ン。 

2011年4月24日日曜日

反省する私

 元来そそっかしい。
 思い込みも激しい。勘違いも、物忘れも甚だしい。
 
 よく考えても間違えることが多い。
 でも頑固な処もある。
 困ったものだと思うが、周りはもっと困るだろう。
 
 「反省」という言葉は「省みることに反する」ではないよね。
 「反して省みる」だとすると、「自分の気持ち、考えに反しても、
 省みる」必要があると言うことだろうか。
 良く解らない。

 所謂「反省」のメカニズム。
 一つ目は自分で自分の言動の失敗に気付き、自分を責める。
 二つ目は人に自分の言動の失敗を指摘され、自分を責める。
 「反省」の正体は、いずれにせよ自分を責めて
 「悔やむ」事にあるのではないか。

 勿論、改善点を見つけて実行すればいいのだが、
 ほとんど出来ない。
 失敗した言動には、自分がそうしたかった理由があるからだ。
 一時的に酷く悔やんでも、「わかっちゃいるけど止められない」。

 昨日も飲み過ぎた。
 仕事の後でモツ焼きの百薬へ寄ったのだが、
 仲の良いキム兄が歌姫ふーさんの歌が聴きたいと言う。
 「よしきた」と誘って、百薬で呑んでスナック京子へ。
 
 スナック京子へ行く前に、
 ビールを少しとお酒を4杯呑んでいた。
 ちょっと飲み過ぎてるなと思ったが、後の祭。
 京子では焼酎の水割りを何杯か・・。
 ちゃんと帰れて良かった。

 「反省などしない串を数えながら呑む」よしい

2011年4月23日土曜日

王様の涙

 一人の王がいた。
 
 王は齢(よわい)、五十を越えていたが、
 身体はいまだ頑強で、日に10里を歩くことが出来た。
 
 王の后はすでに去り、
 宮殿の寝室は一人の身には広すぎた。
 寝室だけではなく、宮殿のどの間も
 「広すぎる」と感じていた

 王は庭いじりを好んだ。
 友人のコーリディ公爵がお茶に寄る時は、
 王は自ら庭に立ち、宮殿のあちこちを飾る
 薔薇の花の摘んだ。

 王は料理も好んだ。
 ほとんど毎日、自らの朝食を拵えた。
 肉や魚も好んだが、年とともに野菜を多く採った。

 ライ麦入りのパンにチュダーチーズ。
 サラダ菜、人参、ブロッコリーに生ハムのサラダ。
 パセリを散らしたオイルサーディン、
 オニオンスープが王のお気に入りだった。

 職務のない朝は、
 一杯か二杯の赤ワインを呑むこともあった。
 ボルドーやブルゴーニュの稀少なワインも呑んだが、
 タンニンの強い、重い渋めのワインなら、
 なんでも美味しいと思っていた。

 王にはスーザンという妹が一人、
 スコットランド王国のエジンバラにいた。
 二人は長い間会ってはいなかったが、
 互いを思い、時折手紙を書いた。

 月よりの使者が王のもとに訪れた。
 使者は月の王が、来月の満月の夜に
 彼の地より訪れると告げた。
 
 突然の訪問は礼に反するものだった。
 王は冷淡で傲慢な処のある月の王を好まなかった。
 けれど、彼自身は月の王に礼を尽くした。
 それは弱小国の王のへつらいなどではなく、
 王道を歩む彼の矜持であったのだ。

 ある夜のこと。
 広いバルコニーの椅子に座り、
 月明かりに照らされた一面のすみれの花を眺め、
 人知れず、王は涙した。  

2011年4月21日木曜日

春の祭典

 春はわさわさする。
 春はそわそわする。

 そして、春はぼわあーーとする。
 でも春は慌ただしく、駆け足で過ぎ去ろうとする。

 春の尻尾を捕まえようと
 あちこちキョロキョロしている内に
 春はあちら側へ向かってしまう。

 花粉症が辛い。
 今年は当たり年だ。
 ウキウキの春がどんよりの春に変わってしまう。

 それでも今年の桜は美しかった。
 去年より、今までより白く可憐に見えた。
 桜が終わって、新緑の季節。

 一年中で一番の季節だと思う。
 日本の新緑は世界一だと、
 何の根拠もなく思ってしまう。

 本当は世界一でも世界100位でも構わない。
 目の前に現れた、新しい生命の息吹。
 まるで奇跡のように思われる。
 「緑あれ!」と誰かが叫んで、
 一斉に現れたような、そんな気さえする。

 「一日の憂いは一日にて足れり」
 山頭火の日記にあった。
 キリストの言葉らしい。良い言葉だ。

 新緑の魔法は長くは続かない。
 一週間か10日もすれば、
 あの淡く繊細は若葉色は、重く強い緑に変わる。
 非日常が日常に変わる。
 春の祭典は終わり、初夏を迎える。

 それでいいのである。

2011年4月17日日曜日

きっこの日記

 友人のあいはらさんから
 「きっこの日記」を読んでみてとメールが来た。
 
 東電「福島原発」の現状や放射能汚染の恐ろしさ、
 チェルノブイリ事故の被害者の報告など、
 新聞やテレビが取り上げない内容が掲載されていた。

 もちろん「きっこの日記」も一つの情報だから、
 別な情報と比較検討して見る必要がある。
 だけど、インターネットや一部の雑誌など、
 テレビや新聞にだけに頼らない情報収集が大切だと感じた。

 大本営発表を鵜呑みに報道していたマスコミと、
 それしか受け取る情報がなかったかつての日本国民。
 そのような構造はまだ尾を引いているようだ。

 かつて「非国民」と言われた人たち。
 その多くは戦争に反対したり協力しなかった人だと聞く。
 最近でもイラクで献身的な復興支援活動をされていた高遠さんが、
 ゲリラの人質となった時に、一部政治家やマスコミから、
 「非国民」のような扱いを受けていたと、強く記憶している。

 いや、正直に言えば彼女のバッシングに
 やむを得ないと一時期でも思っていた自分がいた。
 あの時は確か筑紫哲也氏の「ニュース23」で
 高遠さんの報道を見て自分の不明を恥じた。
 そこではあの事件の後も、イラクの学校へ
 日本で廃棄になった学習机を送るなどの
 支援活動を継続している高遠さんの姿が報じられていた。
 
 今回の震災で、被災者の救済や被災地の復興は何を持ってしても、
 最優先の緊急課題だと思う。
 
 けれど「ひとつになろう、日本」キャンペーンには
 賛成しない者を「非国民」のように見なす
 そんな空気を感じてしまう。
 被災地で苦しんでいる人たちに、
 「ひとつになろう」とは軽々しく言えないと思うのだが。

 それに比べてサントリーのCM。
 「上を向いて歩こう」や「見上げてごらん、夜の星を」は
 押しつけがましくなくて、見る人をほっとさせる。
 あれにはひねくれ者のこの僕も素直に共感できる。

 「うれしいことも悲しいことも草しげる」山頭火

2011年4月16日土曜日

町で一番の美女

 思い出したようにチャールズ・ブコウスキーが読みたくなる。
 アメリカ西海岸で活躍したサブカルチャー文学の旗手である。

 内容は、お酒の事、小説や詩など文学のこと、
 競馬ばどギャンブルの事、女性との秘め事などなどだ。

 放蕩の限りを尽くしているのが却って爽快に感じる。
 実際の彼は小説ほど自堕落ではなかったそうだ。
 当たり前かもしれない。
 放蕩しか尽くして無かったら作品は書けない。

 ミッキー・ロークとフェイ・ダイナウェイが出演した映画
 「バー・フライ」の脚本をブコウスキーが担当していた。
 それで彼を知ったのだと思う。

 ほとんどホームレスの彼ら二人が、
 なけなしの金でバーで飲み、出会う。
 親しみや愛情も芽生えるが、
 憎悪や暴力も描かれていた。

 小説「女たち」。
 何度か読みかえした彼の長編で代表作。
 彼の分身ヘンリー・チナスキーが主人公。
 サブカルチャーの旗手として有名になった彼が
 「詩の朗読会」を開く度に新しい女性と出会う。

 詩の朗読会の前座がロックのライブだったり、
 ライブより朗読会が盛り上がった等の記述には
 正直に云って「ありえない」感じがした。

 今は日本でも有名俳優・女優・アナウンサーなどによる
 朗読会や朗読劇が認知されてきた。
 文学者による朗読会も昔に比べれば増えたと思う。
 詩人谷川俊太郎氏が米国のそれを真似て
 「詩のボクシング」を始め、
 一時期、教育テレビでの放映をよく見ていたものだ。

 山頭火の日記を読み返している。
 山頭火は句を詠み、酒から離れられず(アル中だと書いてある)
 放浪を繰り返した。
 日記には行乞で訪れた町や村の様子、宿の様子は食事、同宿の客、
 主人や女将さん、お手洗いののことまで子細である。
 そしてお酒のこと、その日に書いた句が書かれる。

 ブコウスキーと山頭火。
 趣の異なる日米の無頼派詩人。
 日常の檻から逃れられない臆病者は
 彼らの文章で救われる。

2011年4月13日水曜日

建築家の孫

 三つ目の家を作った。
 とは言っても50分の1サイズの模型の話である。

 偉そうなことを書いても、
 絵だけでは食べていけないこの僕は
 主な収入を絵やデザインを教えることで賄っている。
 家造りのデザイン実習はもう10年以上も教えている。

 三つ目の家の二階には茶室がある。
 ベランダからも入れるが、空中廊下を通り
 にじり口からが正式な入り方だ。

 一階の中心には和室がある。
 一階も二階も回廊の構造になっており、
 一階は裏庭のベランダを挟んでぐるりと回れる。
 二階はやはりベランダと空中廊下で一周できる。
 屋根裏部屋には二階のベランダからの階段と
 二階寝室から梯子階段の二ヶ所から昇れる。
 この家には幼い日の親戚の家が参考になっている。

 1作目の家は屋上を含む3つのベランダが特徴の家。
 2作目の家は一階に独立したアトリエがある家。
 家造りは自分が何処に焦点を合わせるかで、
 デザインがまるで違ってくる。

 僕の祖父は一級建築士だった。
 最近整理した実家離れの小屋から、
 学生時代の几帳面なノートや、
 佐渡病院の建設に関わったいた頃の手紙が見つかった。

 モダニズムの建築家に憧れていた。
 けれど今好きなのは、藤森照信の建築だ。
 屋根にニラを植えた赤瀬川源平邸「ニラハウス」や
 自らのために建てたツリーハウス型の茶室「高過庵」
 などで知られており、長年東大で建築史を教えていた異色である。

 彼にもモダニズムの基本はあるだろうし、
 ポストモダンも考えているだろう。
 しかし彼の建築からは、近代建築が忘れた何かがある。

 今年も4作目の家模型を作るだろう。
 でも模型作りとして挑戦したいのは、
 かつて僕が住んでいた、今はない実家の家だ。
 
 祖父義一が改築したあの家の模型作りがしてみたい。

2011年4月11日月曜日

勘違いし易い話

 長年の付き合いの乾氏からのメール。
 乾さんとはずっと会っていないが、
 主にメールで時折は電話での付き合いが続いている。
 以下は4月10日に乾氏から届いたメールである。

 *

 これも、今まで遠慮していた話題なのですが、
 やっぱり今のうちに書いておこうと思いました。

 例えば、「煩悩即菩提」という言葉がある一方、
 一休の歌に「煩悩を即菩提ぞと誤りて罪を作りし人のいたまし」
 というのがあるように、同じことに見えて、
 まったく違う実相である、ということがらがあります。

 これに関して、とても良い話があるので、ちょっとそれを。
 ある覚者が、「必要な時は、悟りのことなど忘れてしまえ。
 歌い、泣き、友情に身を投じろ。そうすれば、悟りなどより
 もっと『いいもの』が手に入る」と言っています。

 これと同じことを言っている言葉やエピソードは、やたら沢山あります。
 どこかの妙好人の婆さんが、知り合いの女の子が死んで、
 わあわあ泣いていたら、「なんだ、普段は悟ったようなことを言っていて、
 あの子が死んだんでそんなに泣いているなんて、
 お前も大した事がないな」と言われて
 「うるさい、この涙がこの上ない功徳になるんじゃい」
 とさらに大声で泣いた。
 確か白隠も、師匠と別れるときに、
 二人で号泣したという話があったような。
 臨済も、師匠の死で大泣きしたというような話があります。

 先日のメールで、連ドラの別れの場面のことを書いたので、
 それを使って説明したいと思います。
 子供は、親友と別れることになった時、どうするでしょうか。
 ただひたすら泣くしかないのではないでしょうか。

 それは、その親友との間に彼が注いできた友情の
 「エネルギー」が純真で、大きなものだったことの証しではないでしょうか。
 だからこそ、彼は泣かずにいられないし、
 他の何かでやりすごすことはとても無理なのだ、ということでしょう。
 
 覚者も、そのような「方法」をとります。
 ただ、覚者はそれが心の現象であると同時に、
 完全にエネルギー現象(自然現象)であることを自覚しています。
 すると、「人間的な」人々からは、友情や愛情というような、
 心のことがらを「エネルギー」というような物理現象として
 「処理」しているのか、というように思われたりします。
 (そうには違い無いのですが。)友達のようなフリをしやがって、
 実は全然本気じゃねえんだ、と言われそうです。
 
 以前に書いた「空の下にいるという自覚」を、
 ここに応用して説明します。
 空の下にいるという自覚が完全に身についている人がいたとして、
 その人は外から見て、他の人と違うところは何もありません。
 やっていることも、特に違うことはありません。
 ただ、彼は自分のやっていることを、
 すべて、空の下でやっていること(というより、空の下で起こっていること)
 だと常に自覚している、というだけです。

 その男が他の人たちと一緒に阪神タイガースを
 応援して盛り上がっていたとして、
 最初に「仲間」と思われていたのと、
 やがてどこかで感づかれて「こいつは仲間ちゃうでー、
 ウドンで首吊って死んでまえ」と言われるようになったのと、
 どっちが正しいのでしょうか?

 とても分かりにくい、むづかしい問題です。

2011年4月10日日曜日

終わりと始まり

 先月半ば、松明堂ギャラリーに行った。
 望月通陽さんの個展を見るためと
 購入した望月さんの作品を取りに行った。

 地震の後で被災者の支援を行い、
 ほぼ徹夜での仕事を終えた後だった。
 
 普通なら一刻も早く家に戻って、
 食事を取って休んだ方が良いのだろう。
 でもそうはしなかった。

 松明堂ギャラリーはこの3月で24年間の活動を終えた。
 来年、恐竜のプロントくんシリーズを
 松明堂でと考えていた。
 それよりも素敵なお気に入りの画廊が無くなること、
 そのことが残念だった。

 友人の野沢くんが数回個展をやった
 京橋のギャラリー山口も閉廊となった。
 銀座の老舗で様々な現代美術の作家たちが発表を行った
 村松画廊は昨年やはり閉廊となった。(僕も3度個展をしている)
 大学同期の大浦さんが個展をしていた
 ギャラリーブリキ星もそうだ。

 「散るさくら残るさくらも散るさくら」良寛

 人は必ず死ぬ。
 組織や団体も永遠ではない。
 庄屋だった良寛の実家も今はない。
 終わってしまった各画廊はそれぞれが文化の創造に関して
 重要な役割を演じてきたし、その事実はこれからも変わらない。
 
 これからも新しい文化は生み出されるし、
 新たな画廊も生まれるだろう。
 
 ある物事の終了は新しい何かを生み出した時
 大きな意味を持つ。

 終わりは始まりでもあるのだ。

2011年4月5日火曜日

美しい公式

 ピカソやダ・ヴィンチをライバルとうそぶく。

 そんな僕だが、セザンヌをライバルと呼ぶ気はない。
 とても敵わないからだ。
 
 セザンヌは、僕の大好きなマチスやピカソ、
 彼らが偉大だという唯一無二の存在だ。
 セザンヌとは全く違った絵を描いた同時代のモネ。
 彼もセザンヌの偉大さに気付いていた。

 セザンヌは絵を描く対象、人物や静物、風景を
 異なる複数の視点で描く試みをほとんど独自に始めた。
 簡単に言えば、人の顔を正面と横顔をそれぞれに見て
 それを一つの画面に再構成する「福笑い」だと思えばいい。
 これを徹底的に推し進めたのがピカソのキュビズムである。

 最近の研究で分かったのだが、
 レオナルドの「モナリザ」も顔の右半分と左半分を
 僅かに異なる角度で眺めて、一つの顔にしたらしい。
 さすがに我がライバルだと感心した。

 パリの個展が大評判で、巨匠の地位を晩年に得たセザンヌ。
 彼は成功にも浮かれることなくひたすら描くことに没頭したという。

 セザンヌはインタビューに答えてこう語っている。
 「幸福とは美しい公式を見つけること」だと。

 彼の代表作である「サント・ヴィクトワール山」シリーズ。
 打ち震える細い線と、平筆の筆触を利用した四角い形の断面。
 色彩は固有色を参考にしながら、そこから離れ
 色と色の関係や、調和が重視される。

 線と形と色があるいは一体となり、
 あるいは対立するかに見え、画面の中にドラマが生まれる。

 彼の絵画は対象を描写しながら、
 美しい公式に依って新たな世界を創造することに、
 彼の全精力が注がれていたのだろう。

2011年4月4日月曜日

贅沢は素敵だ 2

 パソコンの調子が悪い。

 メールやインターネットには繋がるのだが、
 そこからニフティなどのプロバイダーに繋がらない。
 地震の後、数えるほどしか繋がっていない。
 パソコンが旧式だからだろうか。

 先の戦争中のこと。
 「贅沢は敵だ」というポスターが貼られたと言う。
 それに何処かの誰かが落書きをした。
 「贅沢は素敵だ」と。

 戦時中のことである。
 見つかれば書いた人は逮捕だけでは済まないだろう。
 しかし贅沢など思いもよらなかった庶民の叫びとも言える。

 震災の後のガソリンや水の買い走りが目立った。
 棚からカップ麺が消え、納豆が消えた。
 今でもヨーグルトや一部食品が、品不足である。
 
 群集心理による買い占め衝動は怖いと思う。
 オイルショックの後でトイレットペーパー不足を
 当時、新潟にいた僕は不思議に思った。
 トイレでトイレットペーパーでなく「便所紙」を使っていた。
 
 公共広告機構のCM.
 「がんばろう」「一つになろう」はちょっと行き過ぎではないか。
 愛する人や家を失った人に「がんばろう」と言えるだろうか。
 目の前にいたら言えないと思う。
 言えるのは傷ついたお互いに向かってではないか。

 具体的な支援とは義捐金を送ること。
 必要な物資を送ること、ボランティアとして働くことがある。
 もう一つは、被災地の産物を買うことではないか。

 放射能汚染の風評被害で、
 安全な農産物、海産物も市場に出なかったり、
 売れなかったりが続いていると聞く。

 公共広告で発信し、被災地を元気にするのは
 「がんばろう」ではなく「被災地のものを買おう」ではないか。
 これにはそこで作られた加工品や工業製品も含まれる。

 実家で父にウイスキーを買ってくれと言われて酒屋に行った。
 すでにニッカの「竹鶴」があったので、
 バーボンにしようかと思った。
 まてよ、と思って見るとニッカのシングルモルトで
 宮城県の醸造場で作られた「宮城狭」があった。
 買って飲んでみると実に旨いウイスキーだった。

 日本を元気にしたいならば、
 こんな時こそ消費を拡大できればいい。
 「被災地の商品を買おうぜ、日本」
 SMAPや蒼井優にそう言って貰いたい。
 倹約が美徳なのは分かるが、
 今は「贅沢は素敵」で「日本を元気にする」と思うのだ。

 *注 放射能汚染の心配についてはブログ「きっこの日記」
 を読んで様々問題があることを知りました。
 このブログの主旨は変わりませんが、「放射能汚染」の恐ろしさ
 は十二分に考慮しないといけないと分かりましたので
 「注」として追記しました。