2011年3月23日水曜日

ある夜の出来事

 それは奇妙な光景だった。

 昨日の夜、西武拝島線小川駅で降りた。
 階段を降りると様子がおかしい。
 階段下の郵貯銀行のATMが暗い。
 右手のセブンイレブンが真っ暗だ。
 計画停電に気付いた。
 振り向くと駅のホームだけが煌々としている。

 ダメもとで行き付けの「百薬の長」へ向かった。
 あの地震の日も開店していたモツ焼き屋である。
 可能性は0では無かった。

 真っ暗な通りを歩き、店に近づく。
 店の前に2台の自転車を発見。
 店の窓から幽かな灯りが見えている。
 少しは客がいるのだろう、そう思って入った。

 ドアを開けて入った瞬間、ペンライトのような光を感じた。
 そして「よしいさああん」「おいっ!ジョン・レノン」
 「こっちが空いてるよ」等の声がけたたましく上がった。

 こちらは目が慣れずに何も見えない。
 けれど店内がほぼ満席なのは分かった。
 なんと言うことだろう。

 狭い店内を何人かの男達が起立してくれた。
 そうしないと空いた奥の席に入ることが出来ない。
 座ってしばし辺りを見回す。
 ぼんやりと見える客席のほとんどは馴染みの常連だ。

 入口脇の焼き場ではマスターが黙々とモツを焼いていた。
 両脇に置かれた大きなハンドライトが、
 もうもうと立ちのぼる煙を映し出していた。

 さっきの喧噪がウソのように、満席の客は静かになった。
 闇の力だろう。
 目の前には前の客が呑み食べたグラスや食器が並ぶ。
 その乱雑とした感じと暗い店内と仕事に励むマスターの後ろ姿。
 それらを眺めて感慨に浸った。

 マスター独りで錐もみするので、暫くはお酒も来なかった。
 マスターが動くと、ペンライトを持った数名の常連が照らす。
 「手元を照らしてあげて」「足下も照らした方がいい」声が飛ぶ。
 うーーーん。いい光景だ。
 
 マスターは岩手県宮古市出身。
 あまり語らないが、相当に心を痛めていると思う。
 中越地震の時は1万円を寄付したと後から聞いた。

 お酒がきて、肴を頼もうと思うが、店内唯一のメニューが見えない。
 「佐々木さん、お願い」そう言うと佐々木さんがメニューを照らす。
 「ハツとヒモお願いします」「あと煮込み半丁」「はあい」。

 闇の中で呑む酒、ハツや煮込みの味は何とも言えなかった。
 入店から30分後、店内の蛍光灯が一つ灯る。
 続いてもう一つ。いつもの店内に戻った。
 客席から拍手が湧き起こった。

 とても不思議な良い光景。
 この店の常連で良かったと
 この日ほど思ったことは無かった。

2011年3月21日月曜日

ありふれた日常

 換気扇掃除をした。
 半年ぶりのことである。

 薄いナイロン製手袋を両手に着け、
 油がべっとりと付いた換気扇を外す。
 新聞紙の上に置いて、専用の洗剤スプレーをかける。

 白い泡が油を浮かせてくれる。
 青いTシャツを切り抜いた布で拭く。
 良く落ちて気持ちがいい。

 換気扇を終えると周りの壁面や窓の周り、
 ガスコンロの下と、シンクの周りも掃除する。
 
 思いもかけない3連休の最終日。
 本当ならば土曜日も春分の日の今日も一日仕事の筈だった。
 3日続けての休みは正月に実家に帰って以来だ。
 田舎では、そんなにのんびりは出来ない。
 本当に何も予定のない3連休は、あまり記憶がない。

 地震の影響で交通機関の運休や二日続いての停電を経験した。
 被災地とは比ぶべくもないが、
 そんな毎日に多少緊張していたのだと思う。

 土曜日に新宿へ出掛けた。
 街はいつもの喧噪を取り戻そうとしているように見えた。
 
 見慣れた光景の大きな通り。
 僕のキャラクターである恐竜のプロントくんが歩いている処を夢想する。
 プロントくんは到るところに現れ、
 少女ナナを背中にに乗せて歩き回る。

 スタジオジブリの中心を支える宮崎駿と高畑勲。
 彼らはアニメの基本は、日常の動作をキチンと描くことにあると言う。
 
 非日常はありふれた日常と対比して考える必要がある。
 不条理や幻想、妄想は日常と共に在る。

 そもそも私たちが日常と信じているものとは何か。
 日常も非日常のいずれも、
 人間の小さな視点から捉えられたものに過ぎないのではないか。

 私たちは自分が日常だと思い込んだ世界から、
 少しずれた地点に立つと、其処を非日常だと認識するのではないか。

 ありふれた日常と我々が思い込んでいる世界は、
 実は奇跡のような偶然の積み重ねによるものではないだろうか。

2011年3月20日日曜日

カッターナイフ

 カッターナイフで左手の人差し指を切った。
 人差し指の先端から真っ赤な血が流れた。

 油断したのだ。
 B2サイズのスチレンボードを裁断していて、
 ふと考え事をして、目を逸らしていた。
 「やってしまった」と思ったが後の祭。

 緑色のカッター台の上に、楕円形に切り取られた
 自分の指先の皮を見つけた。
 よほど、スパッと切り落としたのだろう。
 綺麗な楕円形には血の一滴も付いてなかった。

 直ぐに絆創膏を貼った。
 あっという間に血が溢れ出し、とても追いつかない。
 仕方なく、ガーゼの上にテープできつく巻いて止血した。
 漸く出血は収まったようにみえた。

 地震の時に7階屋上のプールから大量の水が溢れた。
 水はすぐ脇にあった階段を伝い流れ落ちた。
 まるで滝のように。
 階段から各階の廊下に流れ込んだ。
 エレベータにも流れ込んでいる。

 外での一般避難者の誘導を終えて戻った。
 二階の階段前で、 数人が水を階下に流れ落とす作業をしていた。
 大きなベニヤ板で作業していた女性に、
 「替わりましょう」と言った。

 指先に力を入れてベニヤ板を掴み、
 床に水平に水を押し出す。
 20分ほどの作業でほとんどの水は
 一階へ移動させることが出来た。
 左手の人差し指を見ると、
 ガーゼから血が滴り落ちていた。

 ほとんど徹夜での避難者への対応を終えて、
 乾パンが入っていた一斗缶をかたづける作業をした。
 缶切りでギザギザに切り取られた口の処で
 今度は右手の中指を二カ所切った。

 二日で指に三カ所も傷つけたのは
 初めてのことだった。

2011年3月10日木曜日

センスがない

 「よしいはセンスがねえてがんに、 
 絵を描いてるんだ、ごーぎ(偉い)らや」
 豆腐屋の清人がよく言うセリフである。

 オレも清人に
 「おめらって音楽のセンスがねえてがんに
 続けてるんだごーぎらや」と言いたいのだが
 奴には音楽のセンスがある。特に奴のギターは凄い。
 歌がオンチなのはご愛敬だが・・・。

 清人は絵も下手くそだ。
 だから「オメに言われたねーや」ぐらいは言い返す。

 しかし先日、美術指導のある講習に参加した。
 そこでコラージュ指導のレクチャーを受け
 参加者は生徒になって制作をした。

 コラージュ制作久しぶりで、喜々として制作した。
 しかし、素材として用意された雑誌の中に
 蒼井優を見つけてしまった。
 そうしたら蒼井優が主題の中心になってしまった。

 それでも20分ほど楽しんで制作。
 完成作を集めて講評会。参加者は20数名か。
 
 みんな上手い。
 指導者を集めての講習会だから、皆美術のプロ。
 上手くて当たり前かもしれないが、
 描画と違ってコラージュのような構成の方が、
 作り手のセンスが問われる部分が大きいと思う。

 わが作品は残念ながら、センスがない。
 写真や様々な布、アルミやボタンや糸くずなど。 
 つまりある造形的な意図を持って
 素材を生かせるかどうか、そこに作者のセンスが現れる。

 清人が言ってた通りだ。
 オレにはセンスがない。
 
 因みにピカソはお世辞にも色彩センスは良くない。
 だからカラリスト(色彩家)だったマチスを尊敬した。
 けれど、ピカソには形態や面、量感について、
 他の追随を許さない、圧倒的な感覚があったと思う。

 オレには造形的なセンスが無い。
 それを自覚出来たことが、一番の収穫だった。

 日本は古くは中国や朝鮮に憧れ、
 近代になってからは西洋に憧れ、
 見よう見まねで追いつき追い越せと努力を重ねた。

 自分を一番だと自覚した時に凋落は始まる。
 永遠の憧れを胸に抱いた者だけが、
 明日を創造できるのだと思う。

 だからオラも明日へ向かって、精進するのだと
 ブログには書いておこう。

2011年3月6日日曜日

意味なんてない!

 「50代の男性に生きている意味なんて無いですよ」

 明石家さんまの番組「ホンマでっか」に
 チャンネルを合わせたら、ゲストの大竹まことが
 相談回答者の一人にそう言われていた。
 
 どうも回答者は生物学的な生殖機能の意味で言っていたらしい。
 それには同意出来なかったが、
 そもそも生きることに意味が必要なのかと、訝ぶった。

 生きていることに意味づけは必要なのだろうか。
 これはカントの二律背反ではないか。
 カントは「世界に始まりはある」「世界に始まりはない」
 のいずれも論理的に証明してみせた。
 まさに矛盾である。

 「生きることに意味はある」「生きることに意味はない」
 いずれも論証出来そうな気がする。
 
 童話「ムーミン」に登場する、哲学者のじゃこうねずみ。
 彼は「何もかもが無駄であることについて」研究している。
 無駄か無駄でないか、これもどちらもが論証できそうだ。
 じゃこうねずみは「無駄じゃ、無駄」と叫ぶだろうが。

 僕は絵を描いているが、
 描くことに意味があるから描いているのでは無い。
 描きたいから、描いているだけだ。
 暇つぶしじゃなくて人生をつぶしたいのだ。

 生きていることに大切なのは実感で
 意味なんかじゃないと僕はいいたい。
 いや実感も必要ないな。
 ただ生きている、それだけでいいのだ。 

2011年3月3日木曜日

日本のデザイン

 ドコモのロゴデザイン。
 実は僕の親戚がデザイン制作に加わっている。

 贔屓目じゃなくても、一見小さい文字が
 遠くからもはっきりくっきり見える。
 ロゴで珍しい赤色も鮮やかだ。

 親戚はCI(コーポレイト・アイディンティティ)の専門家。
 CIはマークのようなロゴデザインを含む、
 企業の顔となるような、
 視覚的でベーシックなデザインを指す。

 分かり易い例で言えば、
 三菱の家紋のようなマークや、
 トヨタ車についているマーク、
 ソニーのシンプルな文字などもそうだ。

 文字やマークで企業イメージを伝える。
 単純に見えても責任の大きいデザインである。
 その気になって眺めて見ると、
 面白いだけでなく、それぞれの工夫が見えてくる。
 日本のデザインはなかなかどうして大したものなのだ。

 だが僕には日本のデザインに大いなる不満がある。
 それは主として色彩に関してである。
 
 車も家電も白色が未だに主流。
 漸く鮮やかな赤や藍色なども現れたけれど。

 かつてローバーミニに乗っていた時
 個性的な外見も見事だが、
 ブリティシュブルーという藍色や深い緑色。
 これらの色に魅了された。
 
 我が日本の新幹線。性能には信頼してるがやはり白物。
 フランスのTGVやドイツの新幹線の色。
 一言で言えば日本の色にはシックな感じがない。
 清潔感と分かり易さ、それだけじゃないだろうか。

 プロスポーツのユニフォームのデザイン。
 専門家が頑張っているんでしょうが、デザインし過ぎ。
 プロのユニフォームは身体を綺麗に見せること、
 それが基本で最優先ではないか。
 それなのに装飾的すぎたり、色を使い過ぎたりしていると思う。

 日本の伝統デザイン。
 祭の意匠や法被のデザイン。
 かっこいいじゃないか。
 
 色彩と装飾を見つめ直せば、
 日本のデザインきっとまだまだ良くなるはず。