2012年7月19日木曜日

愛こそはすべて

「愛したい」よりも「愛されたい」のではないか。
「愛したい」のは他者ではなく、自分自身ではないのか。

愛は欲望の形態であり、苦の原因である。
そんな愛を「素晴らしいもの」としたことが良かったのか。
近代の不幸は「愛を至上のもの」と
勘違いした処にあるのではないか。
身も蓋もない話をすると、
愛は人間の持つ異性(同性の場合もある)に対する欲望を
いささかロマンテックなものに言い換えただけなのだろう。
要は肉体に対する本能的な欲情を、
言葉を駆使して「精神的なもの」のオブラートに包みたいのだ。

ぼくは「愛」を否定したい訳では無い。
音楽、文学、絵画、映画や様々な表現は
「愛」をテーマにしている。
ビートルズもほとんどが男女の恋愛をテーマにしている。
人間は言葉と妄想の生き物である。
だから現実の幻想の上に「愛」の幻想を置きたいのだろう。
芸術も「愛」同じ幻想で成り立っている。

極めつけは「愛こそはすべて」
「君たちに必要なのは愛なんだ」とジョンは歌う。
けれど彼は自分の歌に対する過剰な意味づけを嫌った。
当然だろう。「あんたはこう言った(歌った)じゃないか」
そんなことを言われたらたまったものじゃないだろう。
「歌は歌だ。大した意味はない」そうジョンは言う。

要するに「愛」に対する過大評価が嫌なのだ。
「愛と精神」を口にする人の欺瞞が嫌いなのだ。
「肉体と性」を認めた上で「愛と精神」を語って欲しいのだ。

高校生の時、出会ったスタンダールの言葉。
「性欲を伴わない愛は、恋愛とは言わない」
そうだよな、と思ってしまった。

作家姫野カオルコの小説や評論。
異性に対する外見や肉体の賞賛ほどの褒め言葉は、
他にはないと繰り返し姫野は言う。

実際の話、顔が素敵だとか、かっこいいとか美しいくらいの
褒め言葉が他にあるのだろうか。
「悪い人ね」これほどの賞賛があるだろうか。
「よしいくんはいい人だけど・・・」(残念!)

「愛とは愛されたいと願うこと」ジョン・レノン‘LOVE’より

2012年7月8日日曜日

リンダ・リンダ

女優、星野真里のショートパンツと網タイツ姿にやられた。
初めて見た佃井智美のジャージパンツ姿も良かった。

鴻上尚史作・演出の芝居「リンダ・リンダ」の舞台。
紀伊國屋サザンシアターでの8年ぶりの再演は、
前回より遙かに素晴らしかった。
高校時代の友人、大高洋夫は元過激派リーダーを好演していた。

リンダ・リンダはブルーハーツの音楽をベースに、
あるロックバンドが福島で隔離されている汚染牛を救うべく、
農場の柵を爆破しようと試みる設定だった。
8年前は、諫早湾の堤防を爆破しようとする
設定だったと記憶している。

前の舞台では劇中歌のブルーハーツが
芝居から浮いているように感じた。
今回はドラマに集中出来た。そして歌も効果的に感じられた。
歌を無理にブルーハーツっぽくしないで、
それぞれの役者の歌になっていた。
役者の芝居の肉付けが明確で、実在感があった。
舞台美術や照明、音響も格段に良かった。

けれど劇場の最後部は空席が目立った。
鴻上と大高の芝居を見続けて30数年で初めてのことだった。

毎回の芝居で配られる、鴻上の「ごあいさつ」。
「・・・僕自身、今現在、プロの作家と演出家として
生活しています。(略)けれど、お客さんが一人も来なくなっても、
僕はどんな形であれ、作品を創り続けたいと思っています」

8年前の「リンダ・リンダ」があまり好きで無かった僕は、
今回の上演を見に行くかどうか、ちょっとだけ迷った。
だけど、来て良かった。満足して活力を貰った。
それは決して、女優陣の綺麗で魅力的な足だけからではない。
けれど、舞台は肉体の表現であり、肉体は美しく見えるのだ。

2012年7月7日土曜日

ヒッグス粒子

世紀の大発見らしい。

何しろ宇宙の始まり、物質の始まり、
生命の始まりに関わっているのだという。
この世界が始まった時、素粒子しか存在せず、
それらは質量を持たなかったという。
想像しにくいが、全てが光のようなエネルギーだったのだろう。
ヒッグス粒子は世界の始まりで素粒子を包み込み、
それらを動きにくくすることで、「質量」を与えたのだと言う。

考えてみれば宇宙空間では「無重力」を体験出来る。
「無重力」は「無質量」では無い。
質量はあるのにそれを感じないことは、考えてみると不思議だ。

昨年読んだ唯一の理系本。
村山斉著の「宇宙は何で出来ているのか」。
「反物質」とか「暗黒物質」とか聞き慣れない言葉が出てくる。
何でも我々が知っている宇宙の物質を全て集めても
宇宙全体の確か10分の一程度にしかならないと言うから驚きだ。

ヒッグス粒子の発見は、「宇宙の謎」を解き明かす
新たな1ページを築くのだろう。

日常を超えたスケールを持つ「宇宙物理学」の分野は
普段の我々とはかけ離れたイメージもある。

芸術もそうだが、狭い日常から離れて
もう一つの世界、多元的な世界が自分の中にも
自分の遙か外側にも存在していると感じること。
それらが萎んでしまいそうな小さな日常を
豊かにするのだと思っている。

東京片貝会

故郷のお祭の木遣り唄。それを聞きながら涙が止まらなくなった。

ここは東京のど真ん中。日本テレビ麹町ビルの隣、
東京グリーンパレスの宴会場である。
6月24日日曜日の午後4時過ぎ。
新潟の小さな町に過ぎない小千谷市片貝町。
そこの出身者の集まりである「東京片貝会」

ステージ上にはわざわざ新潟からバスで駆けつけた
39名と東京近郊在住の新潟県小千谷市片貝町出身の79名。
そのほとんどが毎年、秋の大祭で唄われる木遣りを熱唱していた。

午前中の仕事を終えて携帯を手にすると、3通のメール。
その内2通が、中学の同級生、正敏からのものだった。
「朝からバスで、東京へ向かっています。
宏は今日、出席しますか?」

午後1時まで仕事だった。東京片貝会は1時に開始していた。
片貝町は特異な町だといえる。
これと言った特徴のない田舎町なのに、
秋祭りに打ち上げられる四尺玉(直径約120cm)は
世界最大の打ち上げ花火としてギネスブックに登録されている。
重陽の節句である毎年9月9日10日は全国から
片貝町出身者が集まってくる。
成人や厄年還暦には中学校の同級会で山車を出して
打ち上げ花火(スターマイン)を奉納するのだ。
お祭では何度も何度も繰り返し木遣りが歌われる。

「本町二丁目のやな~~~ああっ
なあ~~~はよう、なあはようよおっせぇ~~~ええっ
本町二丁目のや、糸屋ああの娘、はあやれこの~~~せ」
要は糸屋の娘の次女に惚れて願をかける内容の唄だ。

その故郷の唄を聞いて涙が止まらなくなったのは
故郷を奪われた福島県の人たちのことを思い、
自分の故郷が同じようになったら、どんな思いだろうかと
想像したからだ。

故郷が普通にあること。
この世界が当たり前のように存在していることは
様々な幸運によっているのだと思わずにいられない