2011年9月30日金曜日

ある秋の日の情景

秋の日の始まり
陽射しは柔らかく影を落とす
玉川上水歩道の林を抜けて
川底の水面はあるいは黒く
あるいは白く、光と闇を反映している

川辺の土手には曼珠沙華
鮮やかな赤い花弁は此岸から彼岸へと誘う
とりとめもなく日々のことを話し合った
読んだ本の話、最近観た古い映画のこと
アラビアのローレンス

フェルメールの手紙を読む青衣の女
通信文化の幕開けと市民文化の成熟
17世紀フランドルのレシピ
固くなったパンとミルクで作るお粥
あの絵は間違いなく傑作だと
見る前から想像が膨らむ

ネコバスに乗った
ふかふかの天井に触れた
車窓から見える風景は
繰り返し観たあの夏の夕暮れ
バナナ味のアイスクリーム

帰り道、夕焼けの空に一筋のひこうき雲
茜色の雲を左右に分かつ
大きく個性的な三鷹の住宅街を歩く
遠目にも印象的で大きな緑色の銅葺きの屋根
山本有三記念館の洋館だと気付いた

暮れかかる秋の夕暮れ
駅ビルの灯り、街灯、ネオンなど
様々な色の灯りが目の前に在った

2011年9月29日木曜日

秋らのーー。

ばか涼しなってきたのーー。
こないさまで、まっで暑かったてがんに。

日暮れが早なった。
雲が高なって、秋の気配らの。
まんまが旨なってくるの。
あっちぇーと、冷てーもんばっか飲んで食欲が出ねの。

ビールとかハイボールとかホッピーばっか飲んでると
腹がしゃっけなって、調子が悪ならの。
だんだ、オラは夏でもなるたけ燗酒らや。

8月のあっちぇー日に百薬に行ってそ、
いつもみてーに燗酒もらったがらや。
ほしたら、常連の一人がマスターに聞いた。
「マスター、燗酒今日何人目?」「よしいさんで二人目」
ビールやサワー、ウーロンハイを飲んでるもんばっからった。

秋はいいのー。
あったけー、モツ煮込みがうんまなる。
おでんもいいのーー。燗酒は温めが好きら。
ほろ酔い気分でそ、おあいそして外に出れば月ら。

ススキが見えればさらにいいのお。
秋桜もいいのお。花水木が色づくの。
金木犀ももうじきらのー。

やっと秋になったのー。
いかった、いかった。

2011年9月20日火曜日

Covers

ニューヨーク出身の知り合いの米国人。
彼がこんなことを言っていた。
自分はオバマ支持だが、彼は原発を廃棄したりしない。
「なぜなら、彼の支持基盤は原発の発電会社だからだ」

ブッシュは彼自身が石油メジャーのオーナーだが、
火力発電会社が支持基盤だという。
米国では火力発電と原子力発電の会社が別組織なのだ。
当然、利害関係が異なり日本のような独占ではない。

彼はこうも続けた。
ドイツのメルケル首相が「脱原発」を宣言したことに驚いた。
「左派よりの政権なら分かるが、彼女は保守派だ」
だからより素晴らしいと思う。そしてこう続けた。
「海洋プレートの近くに原発を作るなんてクレージーだ」

管前首相は「原発からの脱却を口にした。(個人的見解と言い直したが)
今朝のニュースで野田首相の国連演説が報道されていた。
野田首相は「日本の原発を世界一安全にする」と語り、
今後も原発を推進していくことを世界へ向けて発信した。
朝の報道ではNHKだけが
それに対する反対意見も報道していたように思う。

「脱原発」から「原発推進」へ。
政権政党の方針が180度変わったと言うのに、
マスコミはほとんど沈黙している。何故だろう。

この国ではこの問題を決して国民的議題にしない
そんな空気、何処からかの意志が感じられる。
何故かこの問題で「世論調査」が行われない。
NHKとテレ朝「ニュースステーション」では、
連続して原発の問題を取り上げていたと思う。
それらは大きな広がりを見せようとしない。

9月19日敬老の日。
明治公園で行われた「さようなら原発」の集会に出掛けた。
大江健三郎、山本太郎ほかが呼びかけたこともあり、
会場は人が入りきらないほどの活況を呈していた。

僕の頭の中では、
今は亡き忌野清志郎がRCサクセション時代に作った
反原発のアルバムCovers の Love me tender が流れていた。

「放射能はいらねー、牛乳が飲みてえ・・
何言ってんだ、ふざけんじゃねー。核などいらねえ・・
何言ってんだ、止めときな。いくら理屈をこねても・・・
ほんの少し考えれば、オレにも分かるさ・・・」

「脱原発」か「原発推進」か。
せめて論議ぐらい、まともにして欲しいと思う。
それでも大江氏が述べていたように、
「集会やデモに参加して訴えていく」道しかないのだろう。

あきらめないこと、希望を失わないこと。
それを自分に言い聞かせている。

2011年9月13日火曜日

普遍性と無常

西洋文明は普遍性を目指して発展したのだろうか。
グローバルスタンダード(地球的基準と訳すとおかしい)
なるものは、一つの基準に過ぎないのに
あたかも普遍的理念のように喧伝されている。

東洋の思想が普遍性の構築よりも、
普遍なものなど存在しない、
「無常」であることを考えたのは興味深い。

東洋的な意味の無常は、無秩序であるとか混沌であること、
無政府状態(アナーキズム)であることを意味しないと思う。
むしろ「無常」だからこそ「日常」を、凡庸なまでの日常を
大切にして生きようという考えだと解釈している。

しかしながら近代社会は西洋的な「普遍性」の獲得とともに
進歩してきたことも事実であると思う。
東洋がよくて西洋が良くないと早計に言うことは出来ない。

「普遍性」という理想に向かって、
あらゆることを技術革新に変換していった強さがあった。
考えてみれば「モダニズム=近代主義」の思想は
「より新しいこと」「より優れていること」「より強いこと」を追求してきた。

伝統的な価値観、文化を守ろうとする国や地域が、
そのような西洋の「近代主義」に破れ、
あるいは呑み込まれたのも無理のないことである。

「普遍性」が危険なのはそれが一つの基準を
強力に垂直的に押しつける点にあると思う。
(グローバルスタンダードがその良い例だろう)
だからこそ、水平性の強い文化は押さえつけられてしまうのだ。

そんな西洋において、20世紀の後半のフランスを中心に、
構造主義哲学という、それまでの「人間中心主義」や
「普遍主義」「近代主義」を打ち破ろうとした
思想が現れたことは特筆に値すると思う。
彼らは普遍的と信じられてきた
「キリスト教的世界観」や「西洋近代主義」が
世界の中のひとつの文化・思想に過ぎないことを露わにした。

内田樹著の「寝ながら学べる構造主義」を読んでそんなことを考えた。
今、網野善彦著の「無縁。公界・楽」と
阿部勤也著の「近代化と世間」を読んでいる。

もう少し「普遍性と無常」について考察してみたい。

2011年9月8日木曜日

天使は瞳を閉じて

「ここではないどこかへ」
芝居の「ごあいさつ」で鴻上尚史はそう書いていた。

8月20日土曜日の夜7時。
鴻上主宰の虚構の劇団に友人の大高が出演していた。
「天使は瞳を閉じて」
20年振りの再演だろうか。
第三舞台じゃないから、再演とは言わないのかな。

鴻上は当時、原爆による崩壊後の世界をよく描いていた。
「天使は瞳を閉じて」はそれが原発事故後の世界に変わっていた。
天使と人間になった天使と、人間の話。

かつての記憶が甦ってきた。
街と外を遮断する「透明な壁」。人々の生活を見つめる天使。
壁の外への強い憧れ。謎の薬「コーマエンジェル」
為政者とマスコミの癒着。壁を壊す取り組み。
そしてついに壁は崩壊する。
ベルリンの壁の崩壊の時期だったかもしれない。

鴻上氏は今でも夜中に「どこか」へ行きたくなり
街をあてもなく徘徊するそうだ。
「ここではないどこかへ」
まるで「オズの魔法使い」のドロシーみたいだ。
「虹を越えて」は名曲だった。
旅の果てに訪れたのは、かつての故郷だった。

「ここではないどこかへ」の憧れはかつてあった。
だから東京に出てきたのだし、今でも住んでいる。
新潟の片貝町の同級生は町外の仲間を「旅人」と言う。

20代の頃は海外で生活することを夢見たりした。
今では海外移住どころか、海外旅行も面倒くさい。
「ここではないどこかへ」へ出掛けて何か見つかるのだろうか。
見つかるかもしれない。でも自分の役割ではないように思うのだ。

自分が探し求めるものは「いまここに」あるのではないか。
足下にあるのに見えていないだけなのではないか。
すでに見えているのに、意識と感覚が及んでないだけではないか。

「ここではないどこかへ」も「いまここ」も比喩にしか過ぎない。
探したり求めたりする必要さえないのかもしれない。
何かを求めるのは単に迷っているだけなのかもしれない。
そうして、今日もじたばたと生きる。

2011年9月1日木曜日

五時に夢中

東京MX1テレビ。
月から金までの午後5時から放送。
土曜だけ午前11時から。それでも「5時に夢中」

司会は逸見太郎。
あの名アナウンサー逸見政孝の息子だ。
日替わりのレギュラー出演者が濃い。

マツコ・デラックス、ミッツ・マングローブを始め
北斗晶、美保純、玉袋筋太郎(凄い芸名だ)などなど。
極めつけは岩井志摩子の木曜日。
とにかく下品。でも面白い。

「夕刊ベスト8」(半端だ)のコーナーで
何かにつけて下ネタに、そして自分の彼氏の自慢話に持って行く。
司会の逸見キャスターと女性キャスターは困惑すのだが、お構いなし。
明らかに番組の売りは、あけすけで生々しい語りなのだ。

北斗晶とレギュラーを組んでいるタレントのちはる。
以前、中国の新幹線事故後に列車を埋めた暴挙について一言。
「日本の原発も似たようなものだから、あんまり言えないな」
「うーーーーん」侮れない、そう思った。
自分にはあの暴挙と日本の原発事故を並べて考える視点が無かった。
でも「安全神話」の強引な形成や、事故後の対応を見ると
どっちが暴挙なのかと思った。日本の方が酷くないか。

民放大手でこんな発言をしたら、一発降板ではないか。
そういえば某テレビ局を降板させられた北野誠も時々出ている。

でもあくまでも、「5時に夢中」のウリは下ネタと下品さである。
僕はどちらかと言えば「上品」なのだが、
下ネタも下品も嫌いではない。
かつて同僚だったテニス仲間に
「こんな下品な芸術家は見たことがない」
と言われたことがある。

失礼だな~、上品な芸術家に向かって・・・・。

*お詫びと訂正
「中国新幹線と原発について」の発言はタレントのちはるではなく
月曜日担当のトレーダー若林さんでした。
お詫びして訂正いたします。