2011年9月13日火曜日

普遍性と無常

西洋文明は普遍性を目指して発展したのだろうか。
グローバルスタンダード(地球的基準と訳すとおかしい)
なるものは、一つの基準に過ぎないのに
あたかも普遍的理念のように喧伝されている。

東洋の思想が普遍性の構築よりも、
普遍なものなど存在しない、
「無常」であることを考えたのは興味深い。

東洋的な意味の無常は、無秩序であるとか混沌であること、
無政府状態(アナーキズム)であることを意味しないと思う。
むしろ「無常」だからこそ「日常」を、凡庸なまでの日常を
大切にして生きようという考えだと解釈している。

しかしながら近代社会は西洋的な「普遍性」の獲得とともに
進歩してきたことも事実であると思う。
東洋がよくて西洋が良くないと早計に言うことは出来ない。

「普遍性」という理想に向かって、
あらゆることを技術革新に変換していった強さがあった。
考えてみれば「モダニズム=近代主義」の思想は
「より新しいこと」「より優れていること」「より強いこと」を追求してきた。

伝統的な価値観、文化を守ろうとする国や地域が、
そのような西洋の「近代主義」に破れ、
あるいは呑み込まれたのも無理のないことである。

「普遍性」が危険なのはそれが一つの基準を
強力に垂直的に押しつける点にあると思う。
(グローバルスタンダードがその良い例だろう)
だからこそ、水平性の強い文化は押さえつけられてしまうのだ。

そんな西洋において、20世紀の後半のフランスを中心に、
構造主義哲学という、それまでの「人間中心主義」や
「普遍主義」「近代主義」を打ち破ろうとした
思想が現れたことは特筆に値すると思う。
彼らは普遍的と信じられてきた
「キリスト教的世界観」や「西洋近代主義」が
世界の中のひとつの文化・思想に過ぎないことを露わにした。

内田樹著の「寝ながら学べる構造主義」を読んでそんなことを考えた。
今、網野善彦著の「無縁。公界・楽」と
阿部勤也著の「近代化と世間」を読んでいる。

もう少し「普遍性と無常」について考察してみたい。

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