2010年1月31日日曜日

Roll Over Beethoven (ベートーベンをぶっとばせ)

 夕べは満月だった。
 酒に酔った眼で、それを眺めた。
 
 自慢じゃないが、意志は強くない。
 意志どころか、体力も知力も感性さえも優れない。
 高校の友人、清人はいつもオレにこう言う。
 「よしいはセンスがねーども、
 絵を続けてることはごーぎら(凄いこと)や」。

 昨日は酒を飲まずに帰宅しようと思ったが、
 仕事で疲れたことを口実に、百薬の長に寄った。
 モツ焼きを肴に燗酒を飲んでいると、
 何があっても、もういいやオラ幸せだもんねとなる。

 以前このブログで雪国で雪掘りをしたことで
 忍耐力が付いた、などと書いた。
 大ウソだな。
 新潟生まれのくせに、オレは寒さにも人一倍弱い。

 水曜日に東京都芸術劇場でベートーベンを聴いた。
 東京交響楽団で指揮者の飯盛範親は有名らしい。
 演目は「皇帝」と「田園」。
 プロのフルオーケストラを聞くのは、
 10年以上前にサントリーホールで、
 作曲家ペンデルツキをN響で聴いて以来のことだろうか。

 演奏が始まる。
 数十名の楽団が音程もピッチもピタリと合わせる。
 プロなんだから当たり前かも知れないけれど、
 アンサンブルでもピタッと合わせるのは難しい。
 「皇帝」では楽団の一体感が凄くあって、
 音楽のドライブ感を堪能した。
 満席の大ホールの最前列で、
 ヴァイオリニストをスケッチしながら聴いた。
 印象派の画家でオーケストラを良く描いていた、
 ドガの気分だった。

 ベートーベンも才能在るんだなと、
 何故か上から目線でそう思った。
 ベートーベンの大袈裟な感じが好きではなかった。
 「田園」、「月光のソナタ」などを別だけれど。
 「エリーゼのために」もいい曲だ。
 結構好きなんじゃないか。
 
 クールな大バッハが、僕のお気に入りだ。
 けれど圧倒的な演奏でベートーベンを聴かされると、
 この当時のロックンロールみたいなものかと思った。

 
 「ベートーベンをぶっとばせ」。
 ビートルズでジョージが唄ってた。

 「苦悩を突き抜け、歓喜に至れ」ベートーベン
 「お酒を飲み抜け、閑喜に至れ」よしい  

2010年1月29日金曜日

不毛地帯

 フジテレビのドラマ「不毛地帯」が面白い。

 何よりも山崎豊子の原作が素晴らしいのだと思うが、
 製作スタッフが、原作に真っ正面から取り組んでいる
 感じがする。

 役者が素晴らしい。主演に唐沢寿明。
 恋人役に小雪。娘役に多部未華子。社長役に原田芳雄。
 多部未華子が可愛い。
 NHKの連ドラ「つばさ」では、今一つだった。
 映画「西遊記」のお姫様役やお嬢様役をやると、
 彼女のキュートな感じが良く出るように思う。

 一般的に男はお嬢様に弱い。
 一般的に女は王子様に弱い。
 どちらも遠くで眺めたり、
 ちょっと知り合いになる分にはいいが、
 深く付き合ったり、一緒に暮らすとなるとどうか?
 まあお嬢様も王子様も、見かけや自称がほとんどで、
 実際にはそんな人はイメージの中にしかいないのだろう。

 ドラマ「不毛地帯」の良さは、
 ちょっと抑えめな演出にも現れている。
 同じ山崎豊子原作のドラマTBS「官僚達の夏」。
 テーマが違うから、単純には比べられないのは承知だが、
 「不毛地帯」は過剰な演出を避けて、
 ドラマに落ち着きと上品さを表すのに成功していると感じる。

 このようなドラマを見ると、
 日本のテレビの力もなかなか大したものだと思う
 「深夜食堂」も良かったなー。低視聴率だったらしいが・・。
 
 雑誌ビッグイシューで読んだ記事。
 テレビの放送内容に関する委員会の意見書で
 現在のバラエティ番組に対する苦言が、
 見事な文章で書かれていたとのこと。

 同記事のコラムニスト氏は、
 僕が大好きだった番組「音楽寅さん」を絶賛していた。
 手間をかけて、知恵を絞り、ちゃんと作り込めば、
 上質なバラエティを作ることが可能だと。
 
 バラエティもそうだが、同じニュースを飽きるまで
 垂れ流し、ほとんど検証もしない報道番組を
 改革して欲しいと思う。
 
 名作ドラマ「不毛地帯」が出来るのだから、
 きっと出来るはずだ。
 

2010年1月28日木曜日

森のバロック

 南方熊楠は若い頃、独り山野に入った。
 粘菌や植物を採取するためである。
 その際、しばしば幽霊を見たと書いている。

 夜とは限らず、昼にも見ることが出来たらしい。
 熊楠曰く、「幽霊は垂直に現れる」と。
 
 熊楠は近代日本に生まれた希有な天才であるが、
 相当なホラ吹きでもあったらしい。
 僕は幽霊や、精霊などの実在をどちらかと言えば
 疑問に思っている。
 それでも熊楠のこの話をホラ話とは感じない。
 
 ユングもしばしば霊的な体験をしている。 
 この二人の話を読んでいると、
 まあそんなことがあってもいいかと思えてくる。

 よく考えてみれば、幽霊より恐ろしいのは
 生きている人間だろう。
 人間に酷い目に遭わされた経験は誰しもある。
 幽霊に酷い目に遭わされた話は、
 物語や映画の中でしかない。

 ルネッサンスの理念は円で表されると聞いた。
 円は完全無欠を表すと言う。
 ダヴィンチも円の中に人間の理想を描いていた。

 ところがバロックでは、二つの円を結んだ楕円が
 その特徴を表すという。
 二つの円は二つの中心を表す。つまり二つの真理である。
 楕円の動きがバロックのダイナミズムを生んでいる。

 此岸と彼岸。二つの世界を持つことで
 世界は多様性を増すのだろうか。
 
 芸術も現実の世界に対抗する
 もうひとつの世界をとして存在する。
 それは確かに虚構であって虚構でない。

 「あらゆるものは移りゆき
  移りゆくものはしばしば神々しい」
  エルネスト・ルナン(神学者)
  

2010年1月25日月曜日

北風と太陽

 雑誌氷河時代だと思う。
 この1年間に休刊・廃刊になった雑誌は
 幾つあるのだろうか。

 かつて雑誌は文化の中心的な役割を果たしていた。
 「右手に朝日ジャーナル、左手に平凡パンチ」
 (あるいは少年マガジン)と言われた時代があった。

 青年誌と呼ばれた雑誌も、
 総合雑誌としての文化を厚みを持たせようと工夫していた。
 大学生の時、古本屋さんで良く買っていた雑誌は
 美術関係の「美術手帳」「みずゑ」。
 青年誌の「月刊プレイボーイ」だった。

 「美術手帳」「みずゑ」は当時最新の現代美術、
 ことに米国のそれを時々見ることが出きた。
 評論も専門性が高かった。

 「月刊プレイボーイ」は、ピンナップには勿論
 心ときめかせたが、インタビュー他が良かった。

 ジョン・レノン、ボブ・ディラン、コッポラなどなど。
 かなりな長さで、それ故に本音が垣間見える感じがした。
 ルポタージュも優れていた。
 写真やイラストの質も高く、それらを切り抜いて
 コラージュ作品を作ったものだった。

 そして雑誌「太陽」。
 最高の文芸総合誌だった。
 もうこんな雑誌は現れないのではあるまいか。
 そんな風に感じる。

 山頭火や放哉を知ったのも、南方熊楠を知ったのも、
 この雑誌からだった。
 茶の湯の世界、良寛、魯山人のことも同様だ。

 インターネットの普及と、携帯電話の多機能化が
 雑誌離れに拍車を駆けたようだ。
 雑誌は電車の中で良く読まれていた。
 電車の中を見回しても、ほとんど居なくなった。
 新聞を読んでいる人も減った。

 日本のマスコミ、ジャーナリズムは大丈夫なのだろうか。
 心配になってくる。
 アメリカのマイケル・ムーアやノーム・チョムスキー
 のごとき歯に衣着せぬ論客がいない。

 それよりも、それらを心から支援する民衆の違いなのだろう。
 日本のマスコミを心配する前に、
 傍観者としてしか存在していない、我と我が身を懸念しよう。
 塊多のごとく、自分で雑誌を作るくらいの気概を持とう。
 でもとりあえず、明日からだな・・・・。

2010年1月23日土曜日

意味という病

 禅の世界では、自分が現実だと信じていることも
 実は幻想なのだと言う。
 それどころか、自分というものも幻想だと言う。

 僕らは一日24時間自分と向き合ってる。
 (と思っている)。
 自分が考えたこと、感じたことを全て自分自身だと
 思いこんでいる。
 ぼくら使っている言葉も考えも、実は何処からか来ている。

 現代哲学では現象学や記号論が、主観と客観、
 存在と言葉の関係性について論じている。
 
ジョンがビートルズ時代に書いた名曲、
 「ストロベリーフィールズフォエヴァー」。
 「生きるとことは、目を閉じてしまえば簡単なことさ」と唄う。
 
 数年前、友人と出雲崎の良寛記念館を訪れた。
 そこには復元された五合庵が建てられていた。
 小さな粗末な庵に、良寛は20年も暮らした。
 
 雪に閉ざされた冬は、寒さと孤独との闘いだったろう。
 「独りで生まれ 独りで死に 
  独りで坐り 独りで思う
  そもそもの始め そは知られぬ
  いよいよの終わり そは知られぬ
  空の流れ 水の流れ 清しかれ 」
 亡くなる前にこんな詩を詠んでいる。

 自分と向き合うこと、自分と付き合うこと。
 自分と寄り添うこと、自分を労ること。
 自分に囚われないこと。

 僕は自分という妄想と意味という病に、
 いつも囚われている。
 ヘメレケソ。 

2010年1月21日木曜日

悪の華

 芸術家と呼ばれる人たち。
 彼らは何故創作を続けるのか?
 
 思春期は芸術復活期とも言われる。
 急激な心や体の変化に対応する何かとして、
 芸術の持つ毒性を必要とするのだろうか。

 「全ての悪心は、生きようとする意志が
 辺り構わず激しく働く処から生じるものである」
 ショーペンハウエル

 若い時に、世界や世間、自分の人生や他者について
 悩んだり、憤慨したり、疑問を抱いたりする。
 本の中や、音楽、美術などの様々なものに答を求める。
 過去を美化するのは危険だが、様々なことを
 周りの人と話せたことは良かったと思う。
 人を傷つけるのは人であるが、
 やはり人は人によって癒されるのだ。
 
 人は皆、自分の中に悪の華を持っていると思う。
 それは時に怪物に変身する。
 芸術の毒は怪物を中和させる。
 けれど行き過ぎれば、自らを滅ぼしかねない。

 短命な芸術家は、多くの毒を食らわないと
 自らの怪物と対峙出来なかったのかも知れない。

 「怪物と対峙する時は、自らが怪物とならないように
  気を付けなければならない。
  あなたが深淵を覗く時、
  深淵もまたあなたを見つめているのだ」
 ニーチェ 

 こう述べたニーチェ自身が、自らの怪物に
 滅ぼされた人だとユングは指摘している。

2010年1月17日日曜日

無頼派

 戦後に無頼派と呼ばれた作家がいた。
 太宰治、坂口安吾、壇一雄らである。 
 彼らは文字通り、世間のモラルに反して
 無頼の徒であろうとした。

 安吾の「堕落論」。「堕ちて生きよ」。
 太宰の「人間失格」。
 「恥の多い人生を送ってきました」。
 壇の「火宅の人」。読んでない・・・。

 画家では(戦前であるが)
 長谷川利行、村山塊多が無頼派に相応しい。
 塊多は貧困の中で結核を患った。
 戦前までは不治の病である。
 塊多が好んだ絵具ガランスはまさに彼の血液の色だった。

 長谷川利行。
 はせかわとしゆきと読む。しかし通称は「りこう」である。
 30代で亡くなったと思っていたら、没年は49歳だった。
 
 塊多と利行。両者とも放浪型の破滅型に見える。
 文学をこよなく愛し、美術学校を出ていない処も同じだ。
 しかし二人の気質は、大きく異なる。
 自然を愛し、海辺や山林から想を得ていた塊多。
 都市の中を放浪し、享楽を好んだ利行。
 自らを僧に譬えるほど、求道的だった塊多。
 ダンスホールと酒を愛した利行。

 19世紀印象派の画家で、お互いを認め合いながら、
 全く気質の違った、ゴッホとロートレックのようでもある。
 
 昨夜のTBSのテレビ番組「情熱大陸」で、
 神戸の画家石井一男さんを取り上げていて、大変面白かった。
 石井さんは現在、東京小平市の画廊松明堂ギャラリーで個展を
 開催中である。僕も2度、個展をした画廊だ。
 先日、石井さんのことは知らないで同画廊を訪ねた。
 
 もの静かで、どちらかと言え控えめだが、
 確かな声で伝わってくる、
 そんな印象の絵画を見て、すごくいい気持ちになった。
 本人にもお会いして、少しだけお話をしたが
 人柄がそのまま絵に現れているような方だった。

 僕はどちらかと言えば、純粋で求道的なゴッホよりも
 絵で金儲けや名声を夢見たゴーギャンが好きだ。
 塊多よりも利行が好きだ。利行のように酒と享楽を愛す。

 けれども石井さんのような、自分とは真逆の人が
 この世界に居てくれて良かった、そう思った。

 僕は無頼派にも清貧にもなれない、まことに中途半端な人間だ。
 だがまさに、その中途半端な僕が僕なのだ。

2010年1月16日土曜日

夭折の天才

 友人のあいはらさんからのメールで、
 村山塊多展を知った。
 渋谷の松濤美術館を、たぶん10年振りで訪ねた。

 画学生だった頃、一番の友人中島くんに
 「よしいの絵は塊多に似ている」と言われた。
 当時、アンリ・マチスやジャクソン・ポロックに
 夢中だったボクは、心外だったが口には出さなかった。
 と、以前もブログに書いた。

 入場券が三百円ぽっきり。驚いた。
 祭日の午前中だったが、観客はちらほらで静かな空間。
 雑誌「芸術新潮」の塊多特集で知っていた作品が目白押し。

 中学生だった塊多が作った雑誌「強盗」のポスターや、
 年下の美少年に送った熱烈なラブレターまで展示されていた。
 それから、彼の詩。
 解説にもあったが、かれの芸術開眼はまず文学だったようだ。
 いくつもの詩が大きなパネルに掲示され、面白い。

 23歳で亡くなった塊多は、何よりも素描家だった。
 展覧会を見てそう感じた。殊に木炭画が凄まじい。
 人物や風景が、紙から手前に迫ってくる。
 水彩画もいい。人生を駆け足で登り詰めた画家には、
 スピード感のある制作が合っていたように思う。

 反対に「尿する僧」や「湖と女」など、代表作と言われる 
 油彩画は感心しなかった。躍動感が感じられない。
 油彩でも、風景や静物など習作が優れていると感じた。

 帰省中に両親と「何でも鑑定団」を見た。
 一目で長谷川利行の絵だなーと思った。
 そう言ってから、番組で長谷川利行の名が告げられると
 両親が感心した。「幾ららと思う?」と母。
 「本物ならば最低1千万円らな」と僕。
 果たして結果は・・・。
 「1800万円」。両親は益々感心したが、
 他の作家の真贋も値段もほとんど当たらない。
 長谷川利行は大好きな画家だから、何となく分かっただけだ。

 それにしても、塊多の23歳と関根正二の20歳は若い。
 酒井忠康著の「早世の天才画家」を読むと、
 近代日本の優れた画家の多くが早世だったとある。
 青木繁、萬鉄五郎、岸田劉生、中村つね、三岸好太郎。
 時代の中核をなす画家たちが、かくも早死にしている国は、
 世界でも珍しいのだそうだ。
 (つづく) 

2010年1月14日木曜日

冬の星座

 暗い井戸の底に居ると、
 昼間でも星が見えることがあるそうだ。
 小説「ねじまき鳥のクロニクル」での話だけど。

 都会でも周りに光が無ければかなり星が見える、
 そう雑誌に書いてあった。

 僕が夜空を見て分かる星座は三つ。
 北斗七星(大熊座)、カシオペア座、そしてオリオン座だ。
 南十字星も見れば分かると思うが見たことが無い。
 天の河は何度か見た。

 子どもの頃、星を見るのは怖いことでもあった。
 天空に輝く星は、真っ暗な虚空の中にある。
 星に焦点を合わせると、自分自身が虚空に孤独に存在している
 そんな気持ちになった。

 実際に降るような満点の星と対峙したらどうだろう。
 それもたたった一人で。一人でなくても怖いと感じると思う。

 ロシアのアニメ作家ノルテンシュタインの作品
 「霧に包まれたハリネズミ」。
 ハリネズミのヨージクは星の綺麗な夜に友達の熊を尋ねる。
 夜の霧で森の中は辺りが見えない。大きな白い馬。梟。
 犬に追われたと思ったヨージクは、
 大切なお土産を森の中に置き忘れる。

 紆余曲折のあと、ヨージクは熊の家にたどり着く。
 星を見上げながら二人はお茶を飲み、
 こうして二人で星を見ながら話すのは、
 何という幸福なのだろうと語り合う。
 
 そろばん塾の帰り、東の空に見えたオリオン座。
 あれよりも大きな星々を見たことがない。
 

2010年1月11日月曜日

花の都

 僕のライバルの一人がレオナルド・ダ・ヴィンチだと
 以前書いた。
 そのダ・ヴィンチがライバルと目していたのは誰か。

 彼の手記によると、年下のミケランジェロやラファエロでなく、
 さんざん悪口を言っていたボッティチェリだった。
 背景の風景に心血を注いだダヴィンチは、
 ボッティチェリの背景をけなした。
 
 確かに奥行きと広がりを持ったダヴィンチのそれと比べると、
 ボッティチェリの背景はまるで舞台のセットのようにも見える。
 ただボッティェリの人物の優美な線描には、
 流石のダヴィンチも脱帽だったようだ。

 フランス国王に請われて、幸せな晩年を過ごしたダヴィンチ。
 フィレンツェの支配者となった怪僧サヴォナローラに心酔し、
 彼の処刑によって画家としての輝きを失ったボッティチェリ。

 ボッティチェリの晩年、60歳からの記録はないらしい。
 それでも65歳でなくなり、教会に埋葬されたと本には書いてある。

 ボッティチェリが愛したフィレンツェで、
 行政長官を務めたのち国を追われたダンテは、
 他国で「神曲」を書き上げた。
 国外追放の憂き目に遭わなければ、作家ボルヘスをして
 「西洋文学の最高峰」と言わしめた「神曲」は
 生まれなかったのだろう。
 ボッティチェリは「神曲」のために挿絵を描いている。
 
 ルネッサンス期の「花の都」はパリではなくフィレンツェだった。
 小寒を過ぎた冬空の下、桜の芽は膨らんでいる。
  

2010年1月10日日曜日

つむじ風食堂の夜

 
 「深夜食堂終わっちゃったよ」。
 モツ焼き百薬の長で中田さんが言う。昨日の夜のこと。
 「深夜食堂」は、小林薫主演TBS放映のドラマだ。

 「バターライスの回」ではあがた森魚がゲスト出演。
 いい味を出していた。何十年か振りにバターライスを食べた。
 
 暮れからお正月の実家でのこと。
 父親の作った「のっぺ汁」が旨かった。「豚汁」に「雑煮」も。
 父は干し椎茸や、貝柱を水で戻して出汁を取る。
 下茹でや下拵えがとても丁寧だ。
 八十歳になった父は、歩くことが苦手だが料理の腕は健在だ。

 「顔も頭もオラの方がいいけど、
 料理だけはオメさん(親父)に敵わないの~」。
 親父は笑いながら返した。
 「オレがヒロシに敵わねのは、絵を描くことだけらいや」。

 図書館で「つむじ風食堂の夜」を見つけた。
 タイトルが気になったのと、帯に書かれたキャッチコピー
 「あなたはまだこの面白い小説を知らない」が気に入った。
 第1章「食堂」ではイマイチだなーと思っていたが、
 第2章「エスプレーソ」から第3章「月舟アパートメント」
 に入ると「おおっ、面白い」に変わっていた。 
 残りはあっという間に読み終えた。

 昨年読んだ小説「食堂かたつむり」も面白かった。
 食い意地が張ってるせいか、食に関する文章に惹かれる。
 山頭火日記と、子規「病床六尺」の食に関する記述も良かった。
 
 マンガ「深夜食堂」も大好きだし、同じ雑誌オリジナルに連載中の
 「玄米せんせいの弁当箱」も良い。 

 今日と明日は休肝日。
 夕飯に、サラミと茹でほうれん草、玉葱に柚をマヨネーズで和えて
 焼きチーズサンドイッチに挟んで食べた。
 カロリーは別にして美味しかった。
 明日の休肝日は何を食べようかな。 
 

2010年1月9日土曜日

雪の断面

 左肩が痛い。
 もう5日になる。無論四十肩などではない。
 昨日は左足の土踏まずが痛んだ。初めてのことだ。

 全て屋根の雪下ろしのせいだと、昨日気づいた。
 雪下ろしは普段使わない筋肉を酷使するのだろう。
  
 雪を掘り、放り投げる。
 身体の前で掘り、後ろに投げるわけだが、
 左後ろと右後ろの2方向がある。

 右利きだと、自然と左後ろに投げる形になる。
 それを30分どころか15分も続けるとなかなかである。
 地面に近い雪を掘る時は腰がつらい。
 双葉会(中学の同級会)の光枝さんは、
 これでギックリ腰になったとメールが着た。

 左方向ばかりだど、脇腹の筋肉がつるなと思った。
 右方向に放る。最初は庭の松の木の枝を避ける。
 母が大切にしている木だからだ。
 しかし疲れてくると松の木に注意しなくなる。
 数メートル雪を飛ばす作業を、延々と繰り返すのだ。
 しかも落としてはいけないポイントは数々ある。
 通行人や車が通る道路や玄関前など。

 開始から2時間と少し。
 漸く終えた。大変だったが達成感はあった。
 しかしだ。せっかく雪下ろしをしても雪はこれから本番だ。
 やってもやっても雪はまた降る。
 そうこうしているうちに、春がやってくる。
 まるで人生そのものみたいだ。

 (おわり)
 雪シリーズはとりあえず終了します。
 また思い出したことがあったら、再開するかもしれません。
 年賀状で何人かの方から、このブログを読んでいる、
 楽しみにしているとお便り戴きました。
 ありがとうございます。
 とりあえず、1年間はこのブログを続けるつもりです。
 ではまた。

2010年1月7日木曜日

思ひ出

 「学校には行けなかった」。そうウソをついた。
 「そうか・・・。じゃあ屋根の雪下ろしをしろ」と祖母。
 「・・・・・・・・」オレ。

 観念して長靴の上に(下に)カンジキを履く。
 自分の部屋の脇の小屋根に大屋根に上がる鉄製の梯子がある。
 雪は自分の背丈ほどもある。

 掘っても掘っても雪は山のようにある。
 「学校に行っていれば良かった・・」。後の祭である。
 しかもほとんど吹雪いてくる。空は昼間なのに一面鉛色の雲。
 顔に、横殴りの風が雪を打ち付ける。イテェ~。
 
 手を休めて空を見上げる。
 ほんの一瞬、厚い雲が強い風に途切れて、青空が顔を覗かせる。
 青空を見たのは一週間振りだった。(本当だよ)。

 昼近くまで大屋根を掘り続ける。
 2時間以上やっても半分も終わらない。
 昼食を終えて午後も雪下ろし。トホホ・・・・。
 
 孤独な作業を続けていると、道の方から声が聞こえた。
 「ひろしーーっ!何やってがあ~~~」。
 中学まで同級生だった真由美さんが手を振っている。
 玲子さんも一緒だ。
 「雪下ろしに決まってんねか~。オメらこそ何で帰ってるがれ」。
 「大雪らんだ、午後から休校になったが」。「いいの~」。
 小千谷市内の高校は午後休校か・・・。オラは雪下ろし・・。

 あれから、うん十年が過ぎた。
 久しぶりの雪下ろしだが、やっている内にコツを取り戻した。
 身体が覚えているんだな。

 考えてみれば、冬の間の雪掘りは毎日の作業だった。
 学校でも掃除の時間は雪消し作業。
 遊びでやるスキーも、裏山にゲレンデ作りからやった。
 勿論リフトなんか無い。自力で昇って、スキーで降りる。
 かまくら作り、雪合戦、みな全身運動だ。
 身体が鍛えられて当然だ。
 おまけにある種の忍耐力や諦念が身に付く。
 いいとか悪いとかではなくて。

 ドラマ「深夜食堂」のオープニング曲。
 鈴木常吉の「思ひ出」。素晴らしい曲だ。
 是非聞いてみて下さい。
 (つづくかもしんねーよ)

2010年1月6日水曜日

雪国

 「追いかけて、追いかけて、
 追いかけて~ゆきぐに~」
 
 1月4日、午前10時。
 小屋根(一階上の屋根の事)の雪下ろしを開始する。
 思ったより積雪が多い。多いところで1m弱。
 大屋根はその半分弱。何故だろう?風か?分かった暖房だ。
 
 小屋根下の客間はほとんど使われてない。
 残りは縁側・廊下・トイレだから暖房はしていない。
 2階は三部屋とも寝室だから、夜の間パネルヒーターで暖房してる。
 たぶん積雪量の多少はその差ではないか。風など他の要因もあるが。

 だけど、問題は目の前の雪だ
 周りから掘る手順など思い出しながら、掘り進める。
 少し厚手のナイロン製コートの下はロングTシャツとTシャツのみ。
 これで充分。すぐに暑くなる。雪下ろしは全身運動だ。
 反対に足の裏は、雪の上で長靴だけだから、すごく冷える。
 手袋も完全防水じゃないと、濡れて冷たい。

 時々小休止する。もちろん屋根の上でだ。
 足がじんじんする。左手の手袋は濡れて冷たくなっている。
 あたりを見渡す。背後の山並みの木々が雪に覆われて美しい。
 雲の切れ間に青空が覗く。

 高校生の時のこと。
 豪雪が連日続いた。
 今は廃線となった魚沼線で隣町の来迎寺まで行く。
 そこからは信越線に乗って高校のある長岡まで通った。
 「信越線は雪の影響で1時間以上の遅れが出ています」。
 場内アナウンスが響く。

前日のこと。
 やはり雪による列車の遅れで、2時間遅れで学校に着いた。
 クラスの女子が近づいてきてこう言った。
 「吉井くんが来なかったら、学級閉鎖になったかもしれない」。
 ふざけんな。こちとら田舎から大変な思いして来てるんだ。
 そう言えたら良かった。でも言えなかった。
 
 前日の苦い思いが頭をよぎった。
 「帰ろう」。
 自宅の片貝まで雪道を1時間以上かけて歩いて帰った。
 魚沼線は朝夕計4本しか運行していない。

 「ただいま」。「学校はどうした?」。祖母が聞く。
 「信越線が止まってて行けなかった」半分ウソだ。
 「そうか・・・」。
 それが悲劇の始まりだった。
 (まだまだつづく)
 
 

2010年1月5日火曜日

白い冬

 「あなたを愛した、秋はもう去って。
 感じるものは、哀しい白い冬」。
 ふきのとうの名曲だ。

 何年振りか分からない雪下ろしは、ちょっと怖かった。
 昔は(たぶん今でも)雪下ろしで何人かの人が亡くなる。
 屋根から落ちるのだ。
 
 周りの道路に消雪パイプが入り、除雪が当たり前になった。
 昔なら、たとえ二階の屋根から落ちたとしても、 
 まず怪我さえしなかっただろう。
 それでも亡くなる人はいた。雪を舐めてはいけない。

 信じられないかもしれないが、中学生の時三階の窓から
 遊びで飛び降りていた同級生がいた。
 3m近い積雪のお陰で、全く怪我はない。
 (ただし、下の地形が解らないと危険。よい子は真似をしない事)

 今は除雪のお陰で、道路はアスファルトがむき出しだ。
 二階の屋根から落ちたら怖い。一階の屋根でも3mを超える。

 小学生の頃から、大屋根(二階の屋根のこと)に昇ってた。
 大人に混じって、雪下ろしをした。
 雪はくっついて庇や、洞を作る。洞は天然の落とし穴になる。
 冬山登山をする人なら分かるはずだ。洞は恐ろしい。

 一晩で1m以上降る時がある、地元では「ドカ雪」と呼ぶ。
 ドカ雪が二日続くと、屋根の雪が2m近くになる。
 いくら雪国の家が頑丈でも危ない。雪はもの凄く重い。
 東京の家なら一発で潰れてしまうだろう。

 自分の身長よりも高い雪を掘り、そして下ろすのだ。
 昔は「こすき」という、木のシャベルがあった。
 蝋を塗って雪が付かないようにする。
 軽いので、疲れにくい。カンジキも履く。

 屋根の周り、つまり周辺から掘り始める。
 屋根の周りは庇が出来ていて危ない。
 屋根の端なので、滑りやすい。 
 けれど下ろすのは楽な場所なのだ。当たり前だけど。

 屋根の周りから下ろすのは、
 屋根にかかる重さのバランスを考えてのことだ。
 危険だが下ろし易い周辺を先に攻める。作業は一気に進む。
 
 屋根の天辺になると辛い。
 田舎の家は、都会の家よりおおむね大きい。
 天辺から屋根の端まで10メートル強はある。
 それを投げ飛ばすのはきつい。

 昔は、トヨと呼ばれる木製の滑り台のような道具があった。
 やはり表面には蝋を塗る。
 こうすると屋根の傾斜でトヨに乗った雪は屋根の下に落ちる。
 今ではトヨを使って家はまずないだろう。
 豪雪が当たり前だった時代の遺物である。

 一度だけ小学校の体育館の雪下ろしをしたことがある。
 豪雪の昔は、町内会の班長が学校の雪下ろし当番になった。
 高さ10m近く。天辺は10mを超える。
 日当が少し出る。今はちょっと勘弁してもらいたいな。
 (つづく)

2010年1月4日月曜日

北越雪譜

 新年、明けましておめでとうございます。
 
 2010年(平成22年)最初のブログです。
 何年いや、20年振りくらいの年末・新年の大雪でした。
 今日午前中までいた、郷里新潟県の話です。

 新潟は雪国なんだという、当たり前の事を改めて思いました。
 実家でのドライブ。
 晴れた日の雪景色は美しい。凡庸な風景が一変します。
 しかし、吹雪の日は・・・・・。

 ホワイトアウトって言葉を思い出しました。
 何処もかしこも真っ白で、右も左も前後も分からなくなることです。
 流石にそこまでいかなくても、10mの視界が効かないと苦しい。
 何百回と通っている道を、間違えました。それも三回も。

 昨日、越路町「明鏡寺」へ年始に行った時。
 やはり吹雪。視界は極めて悪い。慣れてない雪道のドライブ。
 細い道が雪でさらに細くなっている。間違えて一本手前の道へ。
 「あれっ?間違えた」。気づいた時はもう遅い。
 バックは出来ない。積雪のある山道へ迷い込む。
 周りの積雪は1m50cmを超える。道路の上には20cmの雪。
 雪国の多くの道は中央に埋められた消雪パイプで、雪を消す。
 そうでない処は除雪車がくる。
 しかし除雪しても、また雪が積もる。そんな山道だ。
 「遭難するかも・・・」一瞬、そんな考えが頭をよぎる。
 下りを数十m行くと、道路に雪の無い処へ戻った。
 ほうほうの体で寺へたどり着く。
 保育園・小・中・高と一緒だった、黒崎くんと奥さんに偶然会う。
 お寺への年始を欠かさない地域は、一体全国の何割あるのだろうか。

 除夜の花火も見た。
 元旦にはスターマイン(連続花火)が上がった。
 綺麗で幻想的。でも雪のせいで半分しか見えない。

 屋根の雪下ろしを最後にしたのは、二十代か三〇代だったか。
 今日やった。高さ1m弱の雪を屋根から下ろす。
 昔を思い出しながら。
 (つづく)