2010年1月17日日曜日

無頼派

 戦後に無頼派と呼ばれた作家がいた。
 太宰治、坂口安吾、壇一雄らである。 
 彼らは文字通り、世間のモラルに反して
 無頼の徒であろうとした。

 安吾の「堕落論」。「堕ちて生きよ」。
 太宰の「人間失格」。
 「恥の多い人生を送ってきました」。
 壇の「火宅の人」。読んでない・・・。

 画家では(戦前であるが)
 長谷川利行、村山塊多が無頼派に相応しい。
 塊多は貧困の中で結核を患った。
 戦前までは不治の病である。
 塊多が好んだ絵具ガランスはまさに彼の血液の色だった。

 長谷川利行。
 はせかわとしゆきと読む。しかし通称は「りこう」である。
 30代で亡くなったと思っていたら、没年は49歳だった。
 
 塊多と利行。両者とも放浪型の破滅型に見える。
 文学をこよなく愛し、美術学校を出ていない処も同じだ。
 しかし二人の気質は、大きく異なる。
 自然を愛し、海辺や山林から想を得ていた塊多。
 都市の中を放浪し、享楽を好んだ利行。
 自らを僧に譬えるほど、求道的だった塊多。
 ダンスホールと酒を愛した利行。

 19世紀印象派の画家で、お互いを認め合いながら、
 全く気質の違った、ゴッホとロートレックのようでもある。
 
 昨夜のTBSのテレビ番組「情熱大陸」で、
 神戸の画家石井一男さんを取り上げていて、大変面白かった。
 石井さんは現在、東京小平市の画廊松明堂ギャラリーで個展を
 開催中である。僕も2度、個展をした画廊だ。
 先日、石井さんのことは知らないで同画廊を訪ねた。
 
 もの静かで、どちらかと言え控えめだが、
 確かな声で伝わってくる、
 そんな印象の絵画を見て、すごくいい気持ちになった。
 本人にもお会いして、少しだけお話をしたが
 人柄がそのまま絵に現れているような方だった。

 僕はどちらかと言えば、純粋で求道的なゴッホよりも
 絵で金儲けや名声を夢見たゴーギャンが好きだ。
 塊多よりも利行が好きだ。利行のように酒と享楽を愛す。

 けれども石井さんのような、自分とは真逆の人が
 この世界に居てくれて良かった、そう思った。

 僕は無頼派にも清貧にもなれない、まことに中途半端な人間だ。
 だがまさに、その中途半端な僕が僕なのだ。

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