2011年10月28日金曜日

尾が北を向けば・・・

今年は珍しく映画(DVDだけど)の年だ。
最近も大作「アラビアのローレンス」
「ベンハー」を立て続けに観た。
10月末現在で26本観ている。
昨年は16本だから既に10本多い。

それにしても「ベンハー」は圧巻だった。
テレビ画面であれだから、
映画館の大画面で大サウンドで観たら
さぞかし凄いだろうと想像した。

ベンハーはユダヤ人の裕福な家の息子の話だが、
古代ローマに支配された当時のユダヤ国に出現した、
イエス・キリストの物語が絡んでいる。

有名な4頭立ての戦車によるレースのシーンに続いて、
ゴルゴダの丘でのキリストの処刑が描かれていた。
処刑の時に黒雲が湧き上がり、稲妻が落ち、豪雨となる。
その時に奇跡が起きる。

不治の病に冒されたベンハーの母と妹が
キリストの死とともに完治するのだ。
キリストの復活も描かれている。
キリスト教はキリストの奇跡を
基盤としている宗教なのだろうかと思った。

そのキリスト教から近代主義が生まれ
奇跡と神秘を表面的には排除したのを不思議に思った。

反対に仏教は、仏陀自身は徹底的な合理主義で
奇跡や神秘を排したにもかかわらず、
神秘主義や多神教的な世界に変容していったこと
これも不思議だなと思った。

2011年10月20日木曜日

ほこ×たて

「熱しやすく冷めやすい」
だからブームに弱い。
なでしこジャパンなんて、大して興味もなかった。
準決勝でスウェーデン戦を観てから、
前からのサポーターのように応援した。

「長いものには巻かれろ」
正しいか正しくないかは問題じゃない。
むしろそんな考えは危険だ。
実際に世の中に正しいことは沢山ある。
多数派になれるかなれないか、それが問題だ。

パソコンではOSでWINDOWSが一人勝ちした。
シェア(販売占有率と言うのかな)を占めることが勝ち負けの分かれ目。
昔々、ビデオテープの世界でもβとVHSの闘いがあり、
シェアで勝ったVHSの勝利に終わった。

村上春樹の小説「羊をめぐる冒険」
何度か読みかえした。村上春樹の傑作だと思う。
その中で主人公は謎の男に仕事を依頼される。
星印のついた一匹の羊を見つけて欲しいと。

政治家と情報産業と株。
この3つが結びついたところ。小説の黒幕もそんな人だ。
さらに官僚と司法が手を取り合ったら無敵だろう。
日本の多くが滅んでも、権力は残り続ける。
まるで太平洋戦争の時と同じだ。

大震災で原発事故が起きる前に、
同じような構造があったことをNHKの特番や
6年前に出版された本などから知った。
けれど、何せにわか原発問題研究家である。

「絶対に安全だ」と朝から晩まで言われ続ける。
大きな民放で、よく知っている俳優やタレントが出演している。
政府や政党も後押ししている。
信じない方がよほどのへそ曲がりか、
高度に頭脳明晰の人々に限られてしまうだろう。
あとは利害関係がないこと。お金をもらっていないこと。
そういえば太平洋戦争も基本的には経済戦争だった。
多くの戦争がそうであったかのように。

絶対安全な建造物と何でも壊す天災。
矛と盾のことを僕はよく知らなかった。

油断はならない。
僕は自らが熱しやすく冷めやすい、
長ものに巻かれる、そんな人間だと知っているからだ。
矛盾に気付くセンサーを持つ、そういう人に僕はなりたい。

2011年10月11日火曜日

近代化と世間

確か「人間失格」だったろうか。
太宰は「世間」についてこう語っていたと記憶する。
「世間とはあなたのことだ」

かつて大人はこう言った。
「そんなことでは世間様に顔向け出来ない」などと。
この場合明らかに、言っている本人が世間そのものだと解る。

以前観た、鴻上尚史の演劇。
タイトルは忘れてしまった。
大罪を犯した息子の父が
「成人した息子の罪を謝罪するつもりはない。
本人が罪を償えばよいのだから」とマスコミに答える。

酷いバッシングに家族や周囲が謝罪するように奨める。
しかし、父親は断固としてそれに応じようとはしない。
彼以外の周囲には、個人という概念が欠如している。

親子であっても親は親、子は子だと思われず、
家族という括りがあり、(それが世間なのだろう)
親子は一体だという思い込みがある。

RCのアルバム‘Covers ’のImagineのカヴァー曲。
理想を歌う清志郎に揶揄するコーラスが入る。
「僕らは不思議でわらっちゃう」と。
清志郎をわらうコーラスは世間そのもののではないか。
エンディングは弱気になったボーカル。
「夢かもしれない。無いかもしれない」
と繰り返す。

ドイツ中世史が専門の阿部謹也の「近代化と世間」を読んだ。
ヨーロッパにもかつては個人という概念がなかったそうだ。
ルネッサンス以前にキリスト教の発達で、
教会が罪の告白、所謂「告解」を強要するようになったこと。
それらを通して個人が産み出されたという。

仏教ではそもそも「自分」というものが妄想だという。
それに共感しながらも、
「世間」の思惑を優先させる様々な場面に出会うと
「個人」を持ち得ない日本に危うさを感じる。

しかし、南方熊楠を始め個人で闘い、
社会を変えたあまたの日本人もかつていたのだ。
「世間」のせいにして、
そこへ逃げ込むことだけは止めたいと思う。

2011年10月8日土曜日

生きることは芸術に値するか

画家、長谷川利行の伝記本
「アウトローと呼ばれた画家」を読んだ。

「生きることは芸術に値するか」
この痛烈な言説。利行独特の逆説。
「自然は芸術を模倣する」に匹敵すると思う。

彼の背水の陣を敷いたかのような生き様。
絵を押し売りし、幾ばくのお金を得る。
木賃宿に泊まり、カフェやレビューを愛し、
絵が描けて、酒が呑めれば良しとする日常。

そんな彼を梅原龍之介や安井曾太郎は嫌ったとある。
当然だろう。
利行は児童画を画架に貼り付けて
「これがボクの手本だ」と言っていたらしい。

日本のフォーブ(野獣派)とも言われた利行の絵。
確かに原色をキャンバスや紙に叩き付けるように見える。
しかし彼の黒の鮮やかなこと。
画面を引き締めていること。
黒の扱いは紛れもなく巨匠の表現だ。
マネやマチスを彷彿とさせるが、いずれとも違っている。

しかし、利行の魅力は何とも言えない抒情にある。
生活、人生、絵画が一体となった彼しか描けない世界がある。
野良犬のようだと揶揄されても、
野良犬として人生を貫いた気品がある。

否、そんな生易しいものでは無かっただろう。
彼は晩年、手術や鎮痛剤を拒否して、
救済病院で孤独死している。
時代が彼をそうさせた部分もあるだろう。

利行になれないへっぽこ絵描きは、
彼の絵にたまらなく憧れる。
生き様は到底真似できないから、
なおのこと憧れる。

2011年10月5日水曜日

プロントくんの冒険

途中になっていたアニメーションと絵本。
ともに恐竜のプロントくんを主題にしたものだが、
どちらも完成に向けて制作に励んでいる。

アニメーションが難しい。
2年前の作品は全く酷かった。
今回はその反省の基に制作しているが
多少マシになっていると思っている。
(でないとマズイよな・・)
アニメには独特の文法がある。
各場面の絵・動きが大切なのは勿論のことだが、
シーン(場面)とシーンの繋がり、シークエンスがさらに重要だ。

絵本は「キャットくんとふしぎなプール」以来の
2冊目になるが、今回は製本も自分でやるつもりだ。
知り合いにキャットくんの絵本を最近ほめられた。
単純なので「そうかなーー」とすぐにその気になる。
 
キャット直感的に浮かんだ映像を絵にまとめ
最後にストーリーを考えて調整した作品だった。
敬愛する絵本・アニメ作家のたむらしげる氏に送った。
氏からは「アニメにすると良いですね」と返事がきた。
直ぐにアニメ化に取り組んだが、3ヶ月で挫折した。
アニメの表現方法がまるで分からなかった。
10年ほど前のことだ。

今回の「プロントくん」の絵本は予め何度も話を考えている。
絵を描き内容の修正を繰り返している。
アニメと絵本では大筋は同じでも、
違うストーリーで作っている。

最近ブログを書く気持ちになれなかったのは
僕の決して豊かではない言語の能力を総動員して、
プロントくんの絵本のストーリーに取り組んでいるからだと思う。

今年になって毎日つけている英語絵日記で
言葉を使っている影響もあるかもしれない。

先日、1年ぶりに行ったジブリ美術館。
特別企画で大人も乗れるネコバスが展示されていた。
車窓から見えるのは夏の夕暮れ。
大好きな「となりのトトロ」で何度も見ている
あのエンディングの場面だ。
トトロは宮崎アニメでも傑出した作品だと思う。

僕の1分余りのミニミニアニメ。
素人なりに自分の世界が表せたらと思っている。