確か「人間失格」だったろうか。
太宰は「世間」についてこう語っていたと記憶する。
「世間とはあなたのことだ」
かつて大人はこう言った。
「そんなことでは世間様に顔向け出来ない」などと。
この場合明らかに、言っている本人が世間そのものだと解る。
以前観た、鴻上尚史の演劇。
タイトルは忘れてしまった。
大罪を犯した息子の父が
「成人した息子の罪を謝罪するつもりはない。
本人が罪を償えばよいのだから」とマスコミに答える。
酷いバッシングに家族や周囲が謝罪するように奨める。
しかし、父親は断固としてそれに応じようとはしない。
彼以外の周囲には、個人という概念が欠如している。
親子であっても親は親、子は子だと思われず、
家族という括りがあり、(それが世間なのだろう)
親子は一体だという思い込みがある。
RCのアルバム‘Covers ’のImagineのカヴァー曲。
理想を歌う清志郎に揶揄するコーラスが入る。
「僕らは不思議でわらっちゃう」と。
清志郎をわらうコーラスは世間そのもののではないか。
エンディングは弱気になったボーカル。
「夢かもしれない。無いかもしれない」
と繰り返す。
ドイツ中世史が専門の阿部謹也の「近代化と世間」を読んだ。
ヨーロッパにもかつては個人という概念がなかったそうだ。
ルネッサンス以前にキリスト教の発達で、
教会が罪の告白、所謂「告解」を強要するようになったこと。
それらを通して個人が産み出されたという。
仏教ではそもそも「自分」というものが妄想だという。
それに共感しながらも、
「世間」の思惑を優先させる様々な場面に出会うと
「個人」を持ち得ない日本に危うさを感じる。
しかし、南方熊楠を始め個人で闘い、
社会を変えたあまたの日本人もかつていたのだ。
「世間」のせいにして、
そこへ逃げ込むことだけは止めたいと思う。
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