2011年10月11日火曜日

近代化と世間

確か「人間失格」だったろうか。
太宰は「世間」についてこう語っていたと記憶する。
「世間とはあなたのことだ」

かつて大人はこう言った。
「そんなことでは世間様に顔向け出来ない」などと。
この場合明らかに、言っている本人が世間そのものだと解る。

以前観た、鴻上尚史の演劇。
タイトルは忘れてしまった。
大罪を犯した息子の父が
「成人した息子の罪を謝罪するつもりはない。
本人が罪を償えばよいのだから」とマスコミに答える。

酷いバッシングに家族や周囲が謝罪するように奨める。
しかし、父親は断固としてそれに応じようとはしない。
彼以外の周囲には、個人という概念が欠如している。

親子であっても親は親、子は子だと思われず、
家族という括りがあり、(それが世間なのだろう)
親子は一体だという思い込みがある。

RCのアルバム‘Covers ’のImagineのカヴァー曲。
理想を歌う清志郎に揶揄するコーラスが入る。
「僕らは不思議でわらっちゃう」と。
清志郎をわらうコーラスは世間そのもののではないか。
エンディングは弱気になったボーカル。
「夢かもしれない。無いかもしれない」
と繰り返す。

ドイツ中世史が専門の阿部謹也の「近代化と世間」を読んだ。
ヨーロッパにもかつては個人という概念がなかったそうだ。
ルネッサンス以前にキリスト教の発達で、
教会が罪の告白、所謂「告解」を強要するようになったこと。
それらを通して個人が産み出されたという。

仏教ではそもそも「自分」というものが妄想だという。
それに共感しながらも、
「世間」の思惑を優先させる様々な場面に出会うと
「個人」を持ち得ない日本に危うさを感じる。

しかし、南方熊楠を始め個人で闘い、
社会を変えたあまたの日本人もかつていたのだ。
「世間」のせいにして、
そこへ逃げ込むことだけは止めたいと思う。

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