2009年12月25日金曜日

ハッピークリスマス  War is over.

 もうすぐ2009年も終わる。
 テレビを見てないから、2009年特集を見ていない。
 今年の漢字が「新」だったことも、昨日ネイブで知った。

 スコットランドのスーザンに3年ぶりの年賀状
 (X'mas Card)を書いた。
 エディンバラに住む僕の妹である。(血縁ではない)
 
 20年くらい前に同じ職場に居た。
 彼女との会話と、NHKラジオ「英会話」によって、
 僕の英語力は飛躍的に向上した。
 と言っても、中学生レベルが高校生レベルになっただけだが。
 英検2級を取ったのもその時だ。

 当時、インドでバスが崖から落ちて20名以上の死者が出た。
 日本のマスコミは「邦人の安否」のみを重大に扱い、
 インド人死者に敬意を払っていなかった。
 彼女はそれに憤慨していた。

 英国人と米国人は偉く違うと、あとで気が付いた。
 (スーザンはスコットランド人で、英国人ではないと言っていた。
 これを読んだら怒るだろうな)。

 たまたまかも知れないが、僕の知っているアメリカの知人は
 キリスト教の宗教色が強かった。
 異教徒は死後、地獄に堕ちるだろうと言われて少し驚いた。

 昨日はスタジオネイブでビートルズセッションだった。
 最後の曲は「ハッピークリスマス」。
 
 「今宵はクリスマス。そして新年おめでとう
  戦争は終わった。もしもみんなが望むならば」。ジョンの歌だ。

 B研の打ち上げで焼酎を飲み過ぎた。久しぶりの二日酔い。
 今日から正月4日まで雪の新潟だ。ブログも暫くお休み。
 みなさん良いお年を。
 

2009年12月23日水曜日

冬来たりなば

 新潟の大雪は峠を越したらしい。

 郷里の友人にメールをして、返事を貰った。
 雪景色の写真、雪かきでぎっくり腰になった話、
 同級会の忘年会の盛り上がりの話など。

 川端康成の「雪国」。
 数年前に読んだ。あまりに有名な冒頭部分。
 「国境の長いトンネルを越えるとそこは雪国だった」。
 新潟の人から見れば、話は逆である。
 「雪に閉ざされた越後から、国境の長いトンネルを越えると、
 そこは快晴の世界だった」と。

 どちらからトンネルを通っても、
 雪深い季節にはそのコントラストに驚く。分かっていてもだ。
 三国峠を境に、日本海側と太平洋側に分かれる。
 強い寒気が日本海側を襲うと、
 時に一晩に1mを超える猛烈な豪雪となる。

 昭和38年の所謂「38豪雪」。
 当時の写真(勿論白黒だ)を持っている。
 と言うより、あの時のことは記憶の片隅にある。
 2階まで完全に家が埋まったのは、あの時が最初で最後だったと思う。
 積雪は4mを超えていただろう。
 自衛隊が雪上車で救援に来た。
 交通が完全に遮断されたからだ。

 次の年に「新潟地震」。豪雪と大地震は関係があるのかないのか。
 5年前の「中越地震」次の年が10年以上なかった豪雪だった。
 しかし「中越沖地震」の前後は大雪ではなかった。

 雪国を逃げ出した人間だからか、「雪景色」に弱い。
 吉幾三の「雪国」、千昌夫の「望郷酒場」。
 雪国の映像をバックに聞くと堪らない。
 ついカラオケでリクエストしてしまう。こんな寒い季節は。

 昨日は冬至だった。
 これから一日一日と春へと近づく。
 桜の硬い蕾は、日ごとにふくらんでいく。

 「埋火やついには煮ゆる鍋のもの」蕪村

2009年12月22日火曜日

美味しんぼ

 牛スジのシチュー。
 上手くできた。西友で買った半額の国産牛のスジ肉。
 灰汁を取るために、まず一煮立ち。一度ザルに上げて水洗い。
 さらに水・お酒、牛スジ、ニンニク、玉葱と
 月桂樹、固形コンソメ、粗挽き黒胡椒、塩、砂糖で90分煮込む。

 翌日、さらに煮込みジャガイモ、人参、シメジを加える。
 ハインツのデミグラスソース、ウスターソース、コンソメを加える。
 何か足りない。味が締まらない。赤ワインを加えてみる。
 びっくり!味が締まってまとまった。味見しながらのワインが進む。

 マンガ「美味しんぼ」。
 時々、ブックオフで買って読んでいる。読み終わると実家に持って帰る。
 父親がそれをまた読む。
 単行本が100巻を超え、マンネリだろうがおかまいなし。
 料理や味に関する描写を見たり、知ったりすれば満足なのだ。

 テレビが壊れて一週間。
 テレビ依存症が治って良いのだが、新聞も取ってないし、
 ネットニュースも見ないので、実家の大雪を知らなかった。

 ドラマ「坂の上の雲」と教育テレビが見られないのが痛い。
 大好きな「いい旅夢気分」と代休の日にみる「チイ散歩」。
 石ちゃんの「通りの達人」も好き。
 旅に出られないせいか、金がないせいか、旅&グルメ番組に弱い。
 (単におじん趣味かもしれない)

 大学1年の頃から、自炊を始めた。
 最初に憶えたのは、肉じゃがとカレー。実は材料がほとんど同じ。
 
 父親が夏作る夕顔汁。(ゆうごおじると読む)
 鯨肉の塩漬けに、冬瓜(夕顔)茄子、ミョウガなど野菜と煮込む。
 こんなに旨い物はない。鯨肉料理を新潟以外で食べたのは函館だった。
 新潟の鯨汁(夕顔汁)と違ってた。函館では正月料理らしい。
 鯨肉料理はあまり豊かでなかった土地の料理かも知れない。

 正月は、郷里新潟の鮭を中心にした正月料理がまた美味しい。
 美味しい料理とお酒はダイエットの敵だけど、敵わないな・・。

 「葱こうて枯木の中を帰りけり」蕪村

2009年12月20日日曜日

冬の花火

 明日今年の仕事を終える。
 明後日は新潟県小千谷市片貝町に居る。

 除夜の鐘を聞くことの出来ない地域がある。
 片貝町のほとんどがそうだ。
 代わりに108発の花火が打ち上げられる。
 「冬の花火」だ。

 太宰治の小説に同題のものがあった。
 どんな内容だったか、とんと思い出せない。

 大晦日。
 紅白歌合戦が終わって、「行く年来る年」始まる頃、
 片貝町では花火が上がる。
 
 昔では考えられないが、鎮守様である浅原神社が人だかり。
 容易に参内できない。神社の背後に花火が打ち上がる。
 「ドオーーーーン。ドオーーーーン」と。
 
 今日はクリスマスだ。
 声高に喧伝するでもなく、冬至から初春を迎える日を祝おう。
 冬は、死と再生の季節かも知れない。

 随分昔のこと。年の暮れにスペインに居た。
 街を飾るイルミネーションは、決してチカチカなどせずに、
 歴史の落ち着きをかい間見せてくれた。
 人々は、ワインを片手に爆竹を鳴らす。
 12時の音が聞こえると、誰にキスをしても無礼講だった。

 彼の地でも、本来は新春を祝う意味があったのではないか。
 雪に閉ざされたイングランドで、
 シェイクスピアは何を思ったのだろうか。
 デンマークの冬の海を、
 アンデルセンはどんな思いで見つめたのだろう。

 高校時代のジョン・レノンは、リバプールの冬の海を見て、
 遠い世界に夢を馳せたのだろうか。

 「幾たびも雪の深さを尋ねけり」子規

2009年12月19日土曜日

くよくよするなよ

 ボブ・ディランの名曲。
 ‘Don't Think Twice,It's All Right'
 邦題は「くよくよするなよ」。

 実にくよくよした歌だ。
 振られた女をぐずぐず思っている。それでくよくよするなよ。
 変だ。男は女々しく、女は雄々しい。前から思ってた。
 「僕は彼女に心をあげた。でも彼女は僕の魂を欲しがった」
 女性の方が欲張りなところも真実か?
 男は女を追いかけるのが好きなのか?

 僕の好きなジョン・レノンの名曲‘Jealous Guy'。
 直訳は「やきもち焼き」。実に女々しい。
 「君の瞳を見つめようとしたら、君が目をそらしたと思った。
  それですごく苦しくなった」。バカみたい。でもいい曲だ。
 ビートルズの‘No Reply'訳すと「返事無し」。
 歌詞はストーカーみたいなジョンの苦しい失恋の歌。

 ジョンは女々しく、ヨーコは未だに雄々しく活動している。
 彼女の詩‘Rainbow Revelation’訳して「虹のお告げ」。
 「怒りに祝福あれ。それは湧き上がる力のしるし」。
 実に力強い。彼女の芸術家としての資質は、言葉にあると感じる。

 2009年12月19日。
 僕はいろんな事にくよくよしている。
 「くよくよするなよ」。
 

2009年12月17日木曜日

〆張鶴

 酒が好きだ。特に日本酒が。
 日本酒はそれだけでも旨いが、魚料理にどの酒より合うと思う。
 地元越後の酒「八海山」「吉乃川」「緑川」そして「〆張鶴」。
 山形の「十四代」、石川の「天狗舞」、東京の「多摩自慢」、
 みな美味しい。

 ビールも好きだ。
 特に生ビールが。枝豆に合うのはやっぱりビールだろう。
 サッポロの「黒ラベル」が僕の定番。飲み飽きない。
 たまに飲むなら、エビスの[THE HOPE]、
 キリンのハートランド、サントリーのプレミアムモルツがいい。

 チーズに合うのは赤ワイン。それもフルボディの渋いヤツ。
 カビ臭く、重い感じのがいい。フルーティなワインは勘弁して欲しい。
 白のドイツワインが好きだったのが、フランスに住んでいた
 ほとんど下戸だった野沢くんに勧められて飲んだ赤のテーブルワイン。
 フランスの街角で300円くらいで売られていた。
 最初は渋くて、カビ臭さが鼻につく。
 でも慣れるとライトボディが不満になった。
 チリワインのカーベルソーヴィニヨン種のワイン「サンランズ」。
 手頃な値段で楽しめる。牛スジのシチューなんかあったら堪らない。

 甘い物にはウイスキーがいい。
 美味しいケーキにオンザロック。昔はバーボンにはまった。
 ワイルドターキー、フォアローゼズ、ジムビーンズ、ジャックダニエルズ。
 スコッチもいい。
 村上春樹のエッセイ「もし僕らの言葉がウイスキーであったならば」。
 この本が出た頃は、スコッチのシングルモルトは、手に入り難かった。
 ところが今では郷里小千谷市のスーパーでも
 「ラルフロルグ」だの「アイラ」だのが適正な値段で手に入る。
 それでも、ニッカの「竹鶴」はすごく美味しい。
 普段は「ブラックニッカ」を飲んでいるけれど。

 カクテルなら「ドライマティーニ」。
 飲みたくなった。久しく飲んでないからだ。
 
 今日は酒を抜いた。
 西友で半額だった牛スジを煮込んでいる。
 玉葱、ニンニク、月桂樹と一緒に。
 明日が楽しみだ。

宇宙家族ロビンソン

テレビが壊れた。
 まだ5年しか経っていないのに・・。
 最もリサイクルショップで買ったものだから
 10年以上前の物かも知れない。

 テレビが好きだ。
 白鳩保育園に通っていた頃、「鉄腕アトム」や
 「8マン」「鉄人28号」を夢中で見ていた。
 当時の画帳が、実家の小屋に10冊余り取ってあった。
 見てみると、アトムに8マン、鉄人がそえぞれ戦っている。
 実に一生懸命戦っているのだ。時折、自分の姿も現れる。

 新潟では当時、民法は1局しかなく、
 あとはNHKと教育テレビだけだった。
 しかも、東京から1ヶ月遅れの放映は当たり前。

 アメリカのテレビ番組がゴールデンタイムに放送されていた頃だ。
 「宇宙家族ロビンソン」大のお気に入りだった。
 いつも9時に就寝だったが、土曜の夜9時のこの番組は別だった。
 ロボットのフライデーが出てくるだけで、ワクワクしたものだった。

 「フライマン」「モンキーズショー」「ママは太陽」「奥様は魔女」。
 ブラウン管の向こうのアメリカは、いつも眩しかった。
 
 18歳で東京に出てきて、独り暮らし。
 4年近くテレビを持たなかった。持てなかったのか・・。
 友達の家や実家でテレビを見ると、やたらに面白かったのを憶えている。
 プロレスを見るようになったのはこの頃だ。

 大学4年の時、2千円で白黒テレビを買った。
 室内アンテナだったので、
 チャンネルをかえる度にアンテナの向きも変えた
 5年前にリサイクルショップで買ったビデオ内蔵のテレビも2千円。
 日本はデフレに入っていると思う。

 1980年の12月9日。
 ジョン・レノンの死を告げる放送を繰り返し見た。
 

2009年12月15日火曜日

建築家の腹

 家の模型を作っている。
 昨年に続き2つ目になる。

 自慢じゃないが、借金はあるが金はない。
 「金がない奴はオレんとこへ来い。
 オレもないから心配するな~。」という感じだ。

 高一で美術を志した僕だが、建築家には憧れがあった。
 宮大工の家系で、祖父が建築家だった影響もあるだろう。
 数Ⅰで挫折していなかったら、建築家を志していたかも知れない。

 だからか、大学に入っても建築への憧れは消えず、
 絵画を除けば、建築科の学生作品をよく見たものだった。
 
 建築展へも出掛ける。
 エミリオ・アンバース、ルイス・バラガン、ル・コルビジェ、
 安藤忠雄、バウハウス展など、様々な建築家、建築作品の
 展覧会へ出掛けた。カタログも幾つか持っている。

 「東武スクエアワールド」であれほど感激したのは、
 世界中の名建築、構造物の正確な模型を見ることが出来たからだ。

 家の模型は、美術を教えている生徒と同じく50分の1サイズ。
 平面図、立面図を描いてから作る。
 勿論、現実に建てられる予定は全くない。

 2作目の今年は、1階に「アトリエがある家」だ。
 もう、平面図と立面図はあらかた完成している。
 間取り、通風に採光、動線、収納、空間性、居住性、機能性、デザイン性。
 考え出すと切りがない。だから面白い。

 心理学者のユングは、自邸を自力で建造するために、
 石工のギルドに入門し、家作りに熱中した。
 製作中に、また完成した後で、家の構造はユング自身の精神の構造と
 対応していることに気づいたと言う。

 ユング系の心理療法に「箱庭作り」がある。
 箱の中の庭にその時のその人の精神が現れるだけでなく、
 それを視覚化し構造化することで治癒に役立てるのだと言う。

 家作り(模型だけど)、は自分と向き合う事なのかも知れない。
 そしてそれぞれの家にはそれぞれの精神構造が現れるように思う。
 だからこそ、同じ規格の集合住宅は?を感じる。
 それが必要だと解っているからなおさらである。

 昔読んだ、雑誌ブルータスで海外の集合住宅が特集されていた。
 低所得者のための集合住宅に驚いた。これこそ文化の差ではないか。
 コルビジェのマルセイユのアパートや、ブルーノ・タウトのアパート。
 未だに現役だが、素晴らしい。タウトの建物は世界遺産にも認定された。
 (それらは低所得者のものではないが)。

 日本でも集合住宅のあり方が問われ始めているし、
 その先駆的な例もある。
 しかし、低所得者のための画期的な集合住宅はいつ現れるのだろうか。

2009年12月13日日曜日

不遇の天才

 僕のライバル。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ。
 実は弾き語りの名手だった。楽器は竪琴。

 当時の美術史家ヴァザーリはダ・ヴィンチをこう評した。
 「レオナルドは優れた吟唱詩人でもあった」と。
 イタリア・ルネッサンスについて調べていてわかった。

 ダ・ヴィンチはイヴェントのプロデューサーでもあった。
 彼の師匠、ヴェロッキオの工房は、絵画・彫刻・金銀細工
 建築・甲冑製作・部屋の装飾・服飾製作・兵器製作・楽器製作
 祭の準備等、あらゆることをこなした。
 
 主な発注者は当時のフィレンツェの実質的支配者のメディチ家。
 ヴェロッキオは、レオナルドの師として現在は知られているが、
 彫刻家として当時から大家として認められていた。

ダ・ヴィンチの有名な手稿の中に、戦車のような兵器があるのも
 当時の様子を反映している。ルネッサンスは戦争の時代でもあった。
 彼は治水や灌漑など、土木事業も得意としており、
 ダヴィンチが陣頭指揮を執った運河が、イタリアに今も残る。

 ダヴィンチは年少の頃、役人にしようとした父親が、
 ラテン語や数学の勉強をさせたが成果が上がらず、
 父はダヴィンチを役人にさせることを諦めたと言う。
 今で言う学習障害ではなかったかとの説もある。
 画家になってからの活躍を考えると、人の才能とは分からないものだ。

 その彼も、ミケランジェロやラファエロがローマ法庁で活躍した時期は
 思うような絵の注文が来なかったそうである。
 作品が優れていることと、人気は必ずしも一致しない。
 万能の天才も例外ではなかった。

 最近、僕のライバルは持ち上げられ過ぎだと思う。
 偉大な天才もただの人だったはずだ。
 「僕は不遇の天才」とブログには書いておこう。

2009年12月9日水曜日

師走

 「いねいねと人にいはれて年の暮れ」路通

 毎年9月を過ぎると、時間の流れにターボチャージがかかる。
 今年も気が付いたら、12月だ。

 2月末にビートルズ研究会の仲間とライブ。
 3月末には約2年ぶりの個展「洪水のあと/動物たちの肖像シリーズ」。
 8月には、藤塚さんにこの新しいホームページを作っていただいた。
 9月以降、初めてのアニメーション「プロントくん」制作。
 12月には2年間続いて挿絵を担当した、
 新潟日報、大高洋夫のエッセイ「ナジラネ」が終了する。 
 
 アニメは先日描き直し・描き足しをして、再度撮影した。
 スキャナーで原画を取り込んで編集し、音楽も入れようかと考えていた。
 でも撮り直したアニメを見ても、いまひとつである。 
 友人の作曲家、伊藤祐二さんに作曲依頼はしたものの、
 年内編集はほぼ無理だろう。どうするか。

 いきつけのモツ焼き屋「百薬の長」の帰り、99ショップに寄ろうとした。
 途中で男の横顔の肖像画のポスター。とても気になった。
 小川駅近くの画廊でやっている。
 行ってみると、6時までの展示。閉まっていた。

 後日、NMCギャラリーを訪れる。開いていた。
 ポスターにあった、黒い背景に赤い丸い男の肖像画を見つけた。
 テレピン油の匂いが鼻腔に入り込む。油絵だ。思ったより小品。
 向かい側の白い壁面に、100号くらいの大きなキャンバスが並ぶ。
 いずれも人物が中心だが、デッサンが正確でタッチと色彩が独特である。

 作者のイケダコウイチさんが話しかけてきた。
 「絵を描いてる方ですか?」
 やはり、外務省勤務にも都市銀行勤務にも見えないらしい。
 イケダさんは若いけれど、すでに自分のスタイルを築きつつある。
 たいしたものだと、感心した。

 あっちにふらふら、こっちにふらふらと、
 寅年のオレは、何処に流されて行くのだろうか。

 「さてどちらに行かう風が吹く」山頭火 

2009年12月6日日曜日

紅葉狩

「うらを見せおもてを見せてちるもみじ」良寛

 年を重ねるほどに、紅葉が愛おしい。
 鬼怒川温泉の屋上露天風呂のもみじ。
 東武日光駅ホームのもみじ。
 そして、新宿御苑のもみじ。
 美しいもみじを眺めていると、魂が抜けるような思いがする。
 
 数年前、一度だけ能を見た。
 吉祥寺のお寺での薪能。11月の上旬だったろうか。
 野外の特設ステージが薪の炎に囲まれて、
 静けさの中に幽玄な雰囲気が醸し出されていた。

 演目は「紅葉狩」。
 紅葉狩に出掛けた武士が、非常に美しい紅葉に潜む物の怪に
 心奪われる。物の怪に扮した役者(シテ)の舞が素晴らしい。
 ラストは、物の怪の魔力を振り切って刀で成敗し、めでたしめでたし。
 生まれて初めてのお能を堪能した。

 美しいものには魔物が潜む。
 雪女やお菊さん、雨月物語の姫もみな美しい。
 美しい物の怪は美しいもの、特に子どもに取り付こうとする。
 世界中のあちこちで、男の子を女装させて育てたり、
 化粧したりするのは、物の怪を惑わすためらしい。
 わざと汚いつけ身なりをさせたり、日本では名前に丸や子を付けた
 (いずれも排泄物を意味した)のも魔物から子を守るためだったと言う。

 師走もはや一週間が過ぎた。今年のもみじも見納めだ。
 
 12月9日。強はジョン・レノンの29回目の命日である。
 (亡くなった現地ニューヨークでは12月8日)。
 生きていれば69歳。

 自分が年を取るのも道理である。
 
 

ふるさと未だ忘れ難く -双葉会旅行記6-

 「国破れて山河在り」。
 山河は勿論だが、オレの中のふるさとは友の中にも在る。

 時々片貝町の夢を見る。たいていがお祭の夢。
 浅原神社や、片貝の町中が出てくる。
 それらは現実の片貝町とかなり違っている。
 双葉会の同級生が必ず出てくる。

 その同級生と世界旅行していた。
 「世界遺産の旅」。ピラミッドからエッフェル塔。
 ロンドン橋にミラノ大聖堂。サクラダファミリアからタージマハル。
 25分の1の世界だけど、すごく楽しい。
 本当の世界旅行より疲れないし、空は青いし、陽は高い。
 「東武スクウェアワールド」はとても楽しめた。
 
 「ペコちゃん」も居た。東京駅前の交差点。
 バッキンガム宮殿の見学。日本のお祭の屋台の前にも。
 25分の1の世界の住人として。

 「旅行券か、不二家のお菓子が抽選で当たるがらと」と正敏。
 バスに戻る。ビールを止めて、サワーを飲む。
 「おいっ、〆張鶴があるや!」とジュウゼン。「いいのう」。
 
 「恵司は燗酒が好きらいな・・」「オメは?」。「オラも」。
 「オラは熱燗にしゃっけえ酒混ぜて飲むや」。ヒロミは変わってる。

 土産屋で休憩の後、バスに戻ってまた飲む。
 外の喫煙コーナーに、圭子、光枝、のり、ヒロミが見えた。
 タバコを片手に、何やら楽しそうに談笑している。
 そこにタバコを吸わない恒がニコニコしながら、圭子に話しかける。
 勿論、声は聞こえない。

 「おいっ、見てみーーや。恒が歯見せに来いと言うてるやーー」。
 ジュウゼンの毒舌は止まらない。(恒くんは、歯医者さんです)。
 「42の時、恒んちでたまげたやーーー」。「何で?」。
 「会長の恒が、オラたち役員を呼んでご馳走してくいたがども、
  かか(奥さん)が金寿司、かあちゃん(母親)がおめん寿司、
 二人が別々に頼んで、両方来たがらやーーー」
 ジュウゼンの話を聞いてると、目の前に映像が浮かぶ。
 オラも金寿司と、おめん寿司食べてーーーーー。

 「おいっ、ひろし東武日光らや」。楽しい時間には羽が生えている。
 みんなに別れを告げバスを降りる。ツアーのまとめ役チカシに礼を言う。

 「よしいさん」。二日後いきつけの百薬で飲んだ後、
 常連の星さんと帰りの電車が一緒になった。
 「よしいさん。あの店に来ている年金の人は選ばれた人達なんですよ」。
 「健康で、年金が貰えて、時間に余裕がないと来られないでしょう」。

 そうだ、その通りだ。
 星さんの話を聞きながら、
 オレは鬼怒川温泉ツアーの事を思い出していた。
 (終)
 *ご愛読ありがとうございました。この旅行記はほとんど本当ですが
  オラの妄想も混じってます。オラは妄想系男子です。

2009年12月4日金曜日

80日間世界旅行 -双葉会旅行記5-

 「じゃあ、オラは帰るいやーー」。オレは言った。
 昨日と同じ鬼怒川温泉駅から帰るつもりだった。切符もある。
 「ひろし、東武日光まで行かねーーーか?」チカシが聞く。
 「東武日光か・・・。行こかな・・・」。

 60人乗りのバスに、20人強。贅沢だ。
 最後部はサロンタイプになっている。
 ジュウゼン、ヒロミ、恵司にオレ。
 何故かオレを除いて、中学の時悪かったグループが最後部に集結。
 「ビール飲むか?」ジュウゼンが聞く。
 「おおっ、いいがか・・」「いいこっつあ」。

 朝9時。アサヒスーパードライが胃に染みる。
 「オラはさ・・。今、高血圧に、通風の薬飲んでるや・・・」。
 「実はオラもら・・・」。「薬代もバカにならねーや」。
 そんな会話が行き交う。オレも数年前から緑内障を患っている。

 病気の話をしている内に、東武スクエアワールドに到着。
 正直に言って、さほどの期待はしていなかった。
 展示物そのものより、展示物に潜む不二家の「ペコちゃんを探せ」に
 話題の中心があった。「ペコちゃん探すと何か貰いるがらや」。
 「ウオーリーは居るがらか」。「いねーーや。ペコちゃんらや」。

 総勢21名の双葉会は団体扱いで、説明役のガイドが付いてきてくれた。
 国家か議事堂から、東京駅へ。サイズは全て25分の1だという。
 それぞれオリジナルの建物が、改修されたり、ラジバンダリ。
 いや補修や、清掃などによってオリジナルが変化する度に
 修正を繰り返していると、説明があった。
 
 しかも展示物それぞれの制作費が、5千万円以上。
 数億のものもあると言う。
 夜は建物の窓から明かりが漏れ、電車や車、船などのライトも点灯する。
 あーー、ロマンチックらなーー。さぞかし綺麗らろーーーな。

 「おい、ひろし!昨日カラオケで唄ってる場合らねかったなーー」。
 「ここに夜来ればいかったのになー」。ヒロミとジュウゼンが言う。
 
 最初はマジメに聞いていなかった説明も、良く聞くと面白い。
 エンパイヤステートビル、クライスラービルなど摩天楼から、
 世界遺産の旅に移る。最初がピラミッド。

 ガイドさんの話に呼応して、オラが説明する。
 「ひろしてば、適当なことばっか言ってるがらと思ったら、
 説明と合ってたやーー。たまげた」。圭子が言う。
 「オメはガイド泣かせらな」。ヒロミが言う。

 「ばかいいやーーー!こっていいやーーー!」
 を繰り返すオラに「ひろしが喜んでくいていかったや」。と恵司。
 同級会で世界旅行へ行くとは思わんかったなーー。
 (まだつづくがらやーーー)
 

2009年12月3日木曜日

修学旅行 -双葉会旅行記4-

 片貝中学校での修学旅行は、箱根・鎌倉・東京だった。

 一日目。箱根の芦ノ湖で遊覧船に乗り、ロープウエーで大桶谷へ。
 ホテルの温泉も硫黄の匂いが強くて驚いた記憶がある。

 ラウンジには日本ソバの自動販売機があり、つい食べた。
 味よりも、機械でソバが食べられることに驚いた。

 ジュークボックスがあった。
 ビートルズの曲を見つけると、富士雄がコインを入れた。
 3曲で100円だったと思う。
 曲はサムシングとCOME TOGETHERがあった気がする。
 家で聞くビートルズとは、何だかすごく違って聞こえた。
  
 「おいっ、ヒロシ!ラーメン食いに行こーや」。ヒロミが言う。
 カラオケは2時間で終了した。シメのラーメン。久しぶりだ。

 「あさや」はとても大きなホテルだ。10階以上あり、
 ホテル中央4階のラウンジから天井まで吹き抜けになっていた。
 「おら、高所恐怖症らんだ、おっかねーーや」。正敏が言う。

 気がついたら、七時前になっていた。夕べは12時前には寝たはずだ。
 7階の部屋のベランダに出る。朝の冷たい大気が心地良い。
 ホテルは川縁にあり、眼下に川を臨めた。

 良く見ると、向かい岸はホテルの基礎の残骸が見えた。
 さらに、その下方にはそのホテルから続いたと思われる階段の跡。
 川底には、かつて露天風呂があったのだろう。

 旅行のまとめ役のチカシにそのことを聞くと、
 「前にあったれ。露天風呂が上から見えたもんな」。

 朝の露天風呂。昨日と男女が入れ替わっていた。
 朝陽に映える山並みを眺めながら、悦に入る。露天風呂はいい。
 
 中学の修学旅行。二日目は鎌倉だった。大仏に鶴岡八幡宮。
 夜は東京のホテルに泊まったはずだが、記憶にない。
 三日目。東京科学博物館見学。身体が縮んで見える鏡の前で
 美術の大川先生、同じクラスのヨシノブと写真を撮った。
 あと毎日新聞社を見学して、集合写真を撮った。

 あさやの朝食。広い食堂がほぼ満席に近かった。
 オレはこの後、みんなの乗るバスを見送るはずだった。
 (つづく)

2009年12月1日火曜日

 双葉会 -双葉会旅行記3-

 双葉会は小千谷市立片貝中学校の第28回卒業生だ。
 先輩の17回卒業生はトナカイ。18回卒業生は永遠会だ。

 俺たちの学年は3クラス。当時100人強だった。
 中三のホームルームで、同級会の名前の原案が出された。
 誰かが言った。「おい、鉄人28号てばどうら?」
 「おーーーっ、いいのう。」「いい」「いい」。
 アホな男子(オレを含む)が同調した。

 担任の中村先生が仰った。
 「おめーーら、40過ぎても、‘鉄人28号’で集まる気らか?」
 一同黙り込んだ。結局、投票で双葉会に決まった。
 
 中一の頃、学校給食は牛乳の配布があるだけだった。
 アホな男子(オレを含む)は、女子が牛乳を飲んでいる時、
 わざとアホなことを言ったりして笑わせた。
 女子が、ブファーーーッと白い牛乳を吹き出す。
 「やったあああーーーっ!」本当に幼稚。
 だけど達成感があったなーーーー。

 当然のように、女子は誰も牛乳を飲まなくなった。
 毎日、大量の牛乳が残される。
 「これはマズイ」。同じクラスの直登と相談した。
「余った牛乳がもったいねえーや!」「どうするや?」「飲むか」。
 
 余った牛乳を飲んだ、確かヤッポも飲んでた気がする。
 「ごくごくごくごくっ」1本、2本、3,4,5,・・。
 オレは7本でダウン。直登は10本飲んだ。
 当然、腹を壊した・・・・。バカだ・・・。
 
 あれから何十年経ったのだろう・・・。
 目の前では、正敏と朋夫が「心の旅」を唄ってる。
 「あーーーっ、だから今夜だけはーーーっ、君を抱いていたいーー」。
 一体、こん中の誰を抱きてーと言うがら、オメは。
 
 一次会の静けさがウソのように、カラオケボックスは盛り上がっていた。
 まるで、中学校の修学旅行の続きみたいだった。
 (つづく)

2009年11月30日月曜日

祝宴 -双葉会旅行記2-

 鬼怒川温泉「あさや」に着く。
 チェックインして、部屋へ。
 缶ビールを買おうと外に出る。

 あさやを出て、坂道を下る。
 途中に見事に紅葉したもみじを見つけ、携帯で写真を撮る。
 さらに下ると、お土産屋さんや懐かしい射的屋さん。

 橋に出て、川原を見下ろす。
 溢れるような水流。紅葉した山並み。
 夕暮れが迫ってくる。

 片貝中学校第28回卒業生「双葉会」会長、正敏から電話。
 「4時半ぐれーに着くんだ、出向かえてくれや」。
 「わかったや」。ビールを買わずにホテルに戻る。

 最上階の露天風呂へ入る。
 同級生のヤサが居た。
 「ひろし、あっちの月見れや。」湯船に入って向かいの山を仰ぐ。
 山には上弦の月が煌々と輝いていた。傍らには黄色と赤のもみじ。
 時折、常世に極楽は現れる。あの瞬間、オレは極楽にいた。

 宴会がはじまる。
 同級会の旅行は八年振りだ。あの時と随分様子が違った。
 みんな、静かだった。いつも騒がしいジュウゼンも大人しい。
 バスで騒いで疲れたのだろう。

 孝雄と和子としみじみと話す。
 「成人の後、直登の車で只見ダムに行ったなーー」
 「なんであたしを誘ったが。」和子さんが言う。
 日本酒が染みる。
 みんな静かに話し、飲み食べている。

 二次会のカラオケで漸く気勢があがった。
 元気のないみんなを、励まそうとひろし(オレ)が立ち上がった。
 「心の旅」「東京」「さよなら」など、青春フォークをリクエストした。
 由美子さんの「Everyting」が素晴らしい。
 さすが片貝小学校合唱部だ。おらもだけど。
 
 鬼怒川の夜は更けていく・・・。(まだまだつづく)
 

2009年11月29日日曜日

晩秋 -双葉会旅行記1-

 昨日、お昼前に拝島を出た。
 鬼怒川温泉へ向かうためだ。
 天気が良くて、車窓から見た今年一番の紅葉だった。

 高田馬場でJRに乗り換え、西日暮里で東京メトロで北千住へ。
 北千住で東武鉄道に乗り換える。快速で鬼怒川温泉へ向かった。
 東武鉄道で日光へは行った事がある。でも鬼怒川温泉は初めてだ。

 電車に乗る夢を時々見る。
 仕事や、所用で何処かへ向かっているのだが、
 いつも乗り換えを間違って、目的地にたどり着けない。
 そんな夢だ。

 快速が各駅停車に変わったとたん、車外の風景が一変した。
 無人駅が多く、駅前には人家がまばら。
 しかし、紅葉はますます美しい。
 もみじの鮮やかな赤と黄色。えび茶色の雑木林。
 あと一週間もしないうちに、すっかり冬の景色に変わるだろう。
 
木々が電車に迫ってくる。
 まるで、夢の中で見た光景に思えてくる。
 遠くの山並みは、暮れかけた太陽の光を浴びて輝いている。

 頭の中で、ジョンが歌ってる。
 「ディアー、プルーデンス。出ておいでよ。
  新しい日に挨拶しなよ。
  太陽は昇り、空は青い。それらは美しい。君みたいに・・」と。
 
 かぐや姫が続いて唄う。「ひとりきり」だ。
 「汽車は行くよ。煙吐いてーー。トンネル越えたら竹中だーー」。
 
 北千住から2時間45分。鬼怒川温泉駅に到着。
 4時15分前だった(つづく)

2009年11月28日土曜日

ゼンマイじかけのカブト虫

 井上陽水のSONGS3。
 何とか見ようと起きていたが、
 1曲目「帰れない二人」を聞いたところで就寝。
 百薬で飲んだお酒と、食べたモツ焼きが効いたのだ。
 
 ビートルズセッションのためにビートルズの曲を練習する。
 大抵はギターを弾きながら、歌う。
 気分転換に歌うのが、陽水だ。
 
 高校時代、同級生の大塚くんからアルバム「もどり道」を借りた。
 陽水のライブアルバムだ。実は返していない。
 高三の時、文化祭クラス企画は音楽喫茶だった。
 そこで陽水の歌をやった。全曲「もどり道」から。

 「いつのまにか少女は」「夏祭り」「東へ西へ」「夢の中へ」など。
 陽水のフォーク曲はほとんど全部好きだ。
 変な歌も多い。シングルカットされた「御免」。

 「なんにもないけど、水でもどうですか」。
 よくシングルにしたなーと、当時も思った。

 「小春おばさん」、小春おばさんに会いに行く歌。
 「ゼンマイじかけのカブト虫」変だけどいいんだな。
 「時計仕掛けのオレンジ」のもじりだろうが、いい。

 「紙飛行機」、たまらなく好きだ。
 「白い一日」、繰り返し練習した。
 陽水に限らず、70年代のフォークには青春の煌めきとはかなさがある。
 まだ少しだけ牧歌的だった世界の、光と影を感じる。
  
 遠くない日に、ネイブのフォーク研究会で
 陽水の曲と五輪真弓の「少女」を歌おう。

2009年11月27日金曜日

椅子とテーブル

 作りたいもの。
 木製テーブルと椅子。

 テーブルは数年前に、一つ作った。
 四角い箱形のサイドテーブル。キャスター付きで色は白。

 椅子はテーブルを完成した直後から、作り始めた。
 でも、まだ2,3割しかできていない。
 背もたれと、座の部分が紅白の市松模様。

 8月からホームページを開設し、同時にブログを始めた。
 そうしたら、パソコン用の机が欲しくなった。
 天版はやはり紅白の市松模様。イメージ画は出来ている。

 絵画と比べると、彫刻や立体デザインは制作過程の自由度が低い。
 基礎的なデザインが決まったら、完成へ向かう道筋がはっきりしている。
 途中で迷う振幅が小さいのだ。
 「洪水のあと」シリーズでは、動物たちの木彫を初めに創り上げた。

 マチスは、非常に平面的で装飾的な絵画に至った後に、彫刻を始めた。
 現実的な量感を獲得するためだとマチスは語っているが、
 変化に富みながら、直線的な彫刻の制作過程を自分の中に取り入れる、
 そのためだったのではないかと想像する。

 心理学者のユングは、自己の成長の過程を具現化するために
 石工のギルドに入会し、自ら石を削り積み上げて、家を築いた
 家を造りながら、自己と自分の思想を明確にしていったのだ。

 机を春までに作ろうと思う。
   

2009年11月25日水曜日

小屋の力

 祖父は建築家だった。
 曾祖父より前は、何代かか続いた宮大工だった。
 
 昔の家。
 近代化や高度成長で、増改築を繰り返した家が多かった。
 小千谷市片貝の実家。典型的な日本家屋に、
 祖父が洋風の建築事務所を増築。二階まで吹き抜けの部屋だった。
 階段は表階段と裏階段の二つあった。
 表階段の上から、建築事務所の部屋を見下ろすことが出来た。

 北魚沼の母方の祖母の家。長岡市深沢町の親戚「筆や」の家。
 友人の家。どれも個性的でユニークだった。
 
 実家の片貝町の裏山の畑に行くと、手製の作業小屋があちこちにある。
 あり合わせの材料で作られた小屋は大きさも、間取りも
 個性がはっきり見て取れた。

 「小屋の力」と言う分厚い本。
 これには世界中の小屋と言う小屋が写真と文で紹介されている。
 フィンランドの海岸沿いにある、休暇小屋。
 アメリカで当時流行りだしたツリーハウスは、少年の夢だと思った。
 そして、巻末にはこれでもか、これでもかと続く作業小屋。

 日本国中の作業小屋が、山の中に海辺に畑の中、田んぼの中街中に
 あらゆる処に点在し、それらが写真で収められている。
 美しい。見飽きない。規格品でないことの美しさだろうか。

 今でも建築に関心があり、本を読んだり展覧会にも出掛ける。
 コルビジェ、ジョンソン、ライト、リートフェルト、ガウディに
 丹下健三、安藤忠雄ら近代建築の名匠はいずれも素晴らしい。

 けれど、それはそれとして無名の小屋にも確かに美しさ面白さがある。
 僕も自分の力で自分の小屋を建ててみたい。
 それは究極の夏休みの工作になるだろう。
 

2009年11月24日火曜日

ほらふき男爵

 このブログを読んで下さっている数少ない友人、知人。
 時折、思いがけない感想をいただく。
 曰く、「よしいさんって博識ね」と。

 僕は学問がないため、知的コンプレックスが強い。
 それが、このブログに反映されている。
 「針小棒大」なのである。
 よく知らないことを、知ったかするテクニック。
 それが、あるのかも知れない。

 浅田彰と島田雅彦の対談集「天使が通る」。
 当時、ニューアカデミズムブームの先頭にいた浅田彰と、
 気鋭の小説家島田雅彦が、ダンテの「神曲」を語っていた。

 ダンテの「神曲」を僕は読んでいない。
 (後日、漫画家永井豪のマンガ版は読んだ。)
 作家ボルヘスの講演集「七つの夜に」を読んだら、
 ボルヘスは「神曲」を世界文学の最高峰だと評していた。

 浅田彰と島田雅彦は様々な角度から「神曲」を語る。
 ダンテが生きていた時代背景、キリスト教神学、
 様々な文化的背景等を、素晴らしいうんちくで語る語る。
 
 感心しながら、ハタと気づいた。
 仕込みをしているのだなと。(遅いな、気づくのが。)
 当たり前のことだ。毎回の対談のテーマを決める。
 打ち合わせと対談に必要な資料を調べる。
 充分な調査と、もしかしたら対談直前の打ち合わせもあったりして
 素晴らしい対談が出来る訳だ。

 勿論、それにしても知識や思考の蓄積が必要なわけで、
 仕込みを否定しているわけでなく、プロとして必要なことだろう。
 舌を巻くような対談や記述には、「下調べ」が重要なのだ。
 それを「下調べ」なしの「もの凄い博識」と錯覚させるのだ。
 (錯覚してるのは、オレだけかなーーー)。

 日曜日、ビートルズセッションの帰り、帰路の東村山駅の休憩所。
 寒かったので、リュックの中の服を取り出して重ね着していた。
 背後にラジオの音と、何やら話しかける声。
 振り向くと、大きな紙袋に大量の荷物を持ったおっさんが居た。
 僕に話しかけているのだ。最初は何を言っているのか判然としない。
 そのうち「国分寺は暖かくていいよ・・。」とのたまう。

 身なりは汚れていないが、何やらホームレス風だ。
 話しかけるおっさんに適当に答える。そして考えた。
 「オレを同じホームレスと思っているのかな」と。
 紙袋は持っていなかったけど、まあ仲間に見えなくはない。

 学生の時、ホームレスの人と話をしたことがある。
 東京駅で、タバコをねだりに来た老人と話し、暫く一緒に座ってた。
 道行く人は、怪訝な面持ちで僕と僕の友人を見つめてた。
 当時、若いホームレスはいなかったからだ。
 「こんな時、田舎の知り合いとかに会いたくないな・・・」そう思った。

 東京は晩秋を迎えようとしている。
 
 
 

2009年11月23日月曜日

子どもほしいね

 友人で俳優の大高洋夫の新潟日報エッセイ「ナジラネ」。
 挿絵を描いて、来月で2年になる。とうとう最終回。
 「何を描く?」と聞いたら、10数年前にTV放映された
 「子どもほしいね」がDVD化されるので、そのことを書くと言う。

 「子どもほしいね」は三谷幸喜が作・演出。大高と工藤夕貴が主演。
 30分に満たない、短いホームコメディだった。
 オープニング。ニール・ヤングの名曲、
 ‘ONLY LOVE CAN BREAK YOUR HEART’。良かった。
 アドリブのような、二人の会話が楽しいかった。

 挿絵について。 
 2年間のほとんどは、旧作を含めた自作を、季節だけを
 念頭に置いて、選んで挿絵とした。
 内容に合わせて描き下ろすようになったのは、今年8月に
 大高の愛犬を描くように依頼され、大高と愛犬の肖像を
 描いたのが初めてだった。
 次がアントニオ・ガウディ。20世紀初頭スペインの建築家。
 バルセロナで彼の建築を直に見ていたが、難しかった。
 しかも、ガウディのエッセイは延期され結局ボツになる。

 10月はNHKの「世界1番紀行」ボリビア編。
 大高がリポーターを務めた。
 「ボリビアてばチチカカ湖しかしらねーや」よしい。
 「ボリビアはゲバラが死んだとこらや」大高。
 革命家ゲバラの肖像を描いた。
 10月号を後で見たら、ゲバラのことは一言も書いてなかった。

 11月号。郷里のJ1チーム、アルビレックス新潟の話。
 友人でアルビサポーターの室橋くんに資料を送って貰った。
 外国人選手のシュートシーンを描いてみた。
 途中で室橋くんに写メを送った。
 「よしい、この選手はガンバ大阪に移籍したや」室橋。
 「だめらか?」よしい。「だめら・・」室橋。
 描き直した。

 注文で描いたことも、あるにはあるが、今回は違った。
 大変だったが、勉強にもなった。
 友人の大高と組んで仕事できたが何よりも嬉しかった。
 
 また挿絵の依頼こねーーかなあ。。

2009年11月22日日曜日

気まぐれ美術館

 学生時代に友人の中島くんに言われた。
 「よしいの絵は村山塊多に似ているな」と。
 塊多は20代で早逝した、明治洋画界の鬼才である。

 当時、米国の抽象表現主義の画家ポロックやニューマンに憧れ、
 仏国の巨匠マチスに心酔していた僕には心外だった。
 よく考えれば、友人の僕を認めてくれて過大な褒め言葉として
 中島くんは言ってくれたのだ。
 (20年後に聞いたら「その通り」と言われました)

 芸術新潮で「気まぐれ美術館」を連載していた州之内徹。
 彼が愛した画家に塊多がいた。
 知り合いの先輩画家に「州之内はいいよ」と言われても
 若い時の自分は愚かで(今でも愚かに変わりはないが)
 近代日本の文化を創り上げた素晴らしい画家達を、
 まるで西洋人が日本美術を嘲るように、軽視していた。

 州之内が現代画廊を経営し、評論を書いた時も
 彼が取り上げた画家、美術家はあるいは時代遅れ、
 あるいは傍流、または無名に近い作家たった。

 例えば、僕の郷里新潟の画家佐藤哲三がそうだ。
 今では、彼の回顧展が美術館で開かれるようになって、
 世間でもその名を知る人が増えてきたが、
 州之内「気まぐれ」で取り上げた時はほとんど無名だった。

 だいぶ前テレビで、敏腕編集者のドキュメンタリーを
 やっていた。彼が手がける作家はみな売れると言うのだ。
 確かに凄い人だと感心した。
 しかし、自分が作家だったら担当になってほしくない。
 作品が作家のものなのか、編集者のものなのか解らなくなるからだ。
 勿論、編集の人の助言は重要で、
 そう言う意味では共同作業なのだろう。

 敬愛するポロックやニューマン、ロスコなどは
 自分を取り上げ、好意的な評論を書いてくれた
 クレメント・グリーンバーグに対しても
 対等以上の態度をはっきりと示していた。
 美術館や、画廊、顧客に対しても同様だ。
 彼らの態度の正しさは、彼らの作品が証明している。

 僕は今、塊多や、佐藤哲三のような優れた作品を
 生み出せたらと願っている。

2009年11月20日金曜日

秋のリズム

 ジャクソン・ポロックはアルコール中毒だった。
 名作「ラベンダーミスト」や「秋のリズム」を
 描いている頃は、禁酒に成功していた頃だ。

 ポロックの伝記映画「ポロック・愛のアトリエ」
 でもそれが描かれていた。
ずっと禁酒を貫いていた彼が、制作風景の撮影のために
 野外で絵を描く。
 慣れない撮影、寒さのためにバーボンに手を伸ばす。
 元のアル中に逆戻りしてしまう。

 自分で制作していて、絵の具が余る時がある。
 余った絵の具でポアリング(撒き散らし)を試みる。
 絵の具の粘性の違い、溶かす水の量や、
 滴らせ方撒き散らし方に依って表情が変わる。

 抽象的な表現は、対象としてのイメージ持たない分、
 表現行為に没頭出来る利点がある。
 しかし、逆に強い意志と作品の全体像を持たないと
 ただの造形遊びに陥ってしまう。

 最初の抽象画家の一人、ピエト・モンドリアンは
 キリスト教の持つ絶対的で厳格な神の世界を 、
 抽象表現で表したと言われている。
 抽象の方が普遍性を表し易いからだ。
 米国の優れた抽象表現主義の画家、マーク・ロスコ、
 バーネット・ニューマンはともにユダヤ人だった。
 知っての通り、ユダヤ教では神の姿を具象的には表さない。

 ピカソが完全抽象の入り口に、歴史上最も早く立ちながら、
 そこへと向かわなかったのは、彼の中にカソリック的な
 多神教的の素地があったからではないだろうか。
 (ピカソ自身は無神論的な態度を表明しているが)

 ポロックは大恐慌の時代の画家だった。
 多くの芸術家が退廃的になり、多くがアル中だったと聞く。
 
 僕は自分がアルコール中毒でないことを確認するために
 週に2,3度お酒を抜く。

 「酔のさめかけの星がでてゐる」放哉

2009年11月16日月曜日

プロントくんの航海

 アニメを描き足した。
 プロントくんが海に潜って泳ぐ場面、
 海底に古代遺跡がある場面を描いた。
 
 人間の眼は、映画のフィルムと同じらしい。
 つまり一つの光景を連続して眺めているわけでなく、
 網膜に細かく投影された、各場面をコマ送りで見ていると。
 まさにアニメーションの原理と同じだ。

 「見る」と言う行為は、経験に依って支えられていると、
 何かの本で読んだ。
 生まれつき視力がない人が、手術などで見えるようになった時、
 様々なトラブルが生じると。
 それは空間、特に遠近が分からないと言うことらしい。
 われわれは赤子の時に、寝返りや、ハイハイをしながら
 空間と遠近についての、膨大な経験と認識を繰り返し学んでるのだろう。

 男女で空間認識や、地図解読能力に多少の差が見られるのも、
 行動の違いで説明出来るのだろう。
 勿論、僕のように地図を読むのが苦手な男性もいる。

 絵を描いている時、最も気を遣うのが空間表現だ。
 絵は二次元だからそもそも空間はない。
 そこに空間があるように、錯覚させる。虚構を築くのだ。

 アニメーションでは、動きで命を吹き込む。
 元々動かない絵が動き出す。分かっていても驚くし嬉しい。
 初めてアニメーションを創り出した人、それらを見た人の
 感動と驚愕は想像に難くない。 
 

2009年11月15日日曜日

カーニバルの夕べ

 西武国分寺線の鷹の台駅。

 駅前には松明堂ギャラリーがある。
 今年の3月末に個展「洪水のあと」を開いたところだ。
 3何前にも個展「レクイエム」を開いた。

 この画廊にも立ち寄るけれど、楽しみは玉川上水の遊歩道。
 毎日、西武線からも紅葉を眺めている。
 それでも、玉川上水の遊歩道の中で味わう紅葉は格別だ。
 とりわけ鷹の台から東大和へ向けての道が一番だと思う。
 武蔵野の雑木林の緑が濃く深いからだ。

 途中、武蔵野美術大学へ向かう道へ曲がる。
 めあては大学ではなく、手前にある中華料理「東華園」。
 ここの肉野菜ラーメンは僕の中でラーメンランキング1位だ。
 普通の大盛の量はある。上にたっぷり載った肉野菜は、
 ゆうに普通の肉野菜炒めの量がある。
 これらがニンニクと胡麻たっぷりのちょっと辛めのスープに
 ちょっと細めの縮れ麺が馴染む。これを半ライスと食す。
 半ライスもどう見ても半ではない。
 僕には量が多いのだけれど、当然全部食べる。
 食べた後、ニンニク臭くなるのが難点。
 デートの前はお薦め出来ない。

 ラーメンで熱くなった体を持て余しながら、再び遊歩道へ。
 夜は、側にあるテニスコートや学校が無いところは真っ暗だ。
 
 暗闇は不思議だ。
 離れて完全な暗闇に見えても、近づくと光がある。
 「夢の中の光は何処から来るのか?」
 米国の美術家ジェームス・タレルの展覧会のタイトルだ。
 確かに、夢の中に現れる光は、眼で見ているものではない。

 すっかり、葉が落ちた夜の雑木林を見ていると
 「カーニバルの夕べ」を思い出す。
 仏国の画家、アンリ・ルソーの名作だ。
 あの絵の中にいる、アルルカンと村娘が現れそうな
 そんな気がする。

 今年の紅葉はこれからが本番だ。

2009年11月14日土曜日

スワンソングが聴こえる場所

 新所沢にあるスタジオネイブ。
 ここに毎月通っている。
 ビートルズ研究会に参加するためだ。

 ビートルズ研究会略してB研に参加するようになって、
 4年になるのだろうか。
 今年の2月にはB研のメンバーとライブもやった。

 今はB研への参加者が20名を超えることもあるが、
 4年前は数名、10名を超えることなどなかった。
 B研とは何か。ビートルズを研究する集まりに違い無いが、
それぞれがビートルズのメンバーのつもりになって
歌い演奏する。みんながかなりなビートルズマニア。

 B研のホスト役でジャズピアニストの高木氏に、
 初めてB研に誘われた時、アルバム「アビイロード」を全曲
 やると言われた。曲は全部知っている。アルバムは持ってるし。
 でも、やったことのあるのはYou Never Give Me Your Money
だけ。練習した。「ビコーズ」なんか音楽の専門家に
 レッスンを受けたりした。

 あれから4年近く。
 今度は大好きな「ホワイトアルバム」特集。嬉しい、楽しみ。

 「僕の言うことの半分は意味がないけど、
  君に近づきたくて言うのさ。ジュリア」

 自分の人生の終わりに、
 あるいは世の終わりに僕はどんな音楽を
 聴きたいと思うのだろうか。
 

2009年11月13日金曜日

うしろすがたのしぐれていくか

 山頭火と放哉を知ったのは偶然だった。
 雑誌「太陽」で特集をしていたのだ。
 もう20年以上前のことだ。

 高校生の時、本屋で「人間失格」を見つけて
 太宰にのめり込んだように、山頭火が好きになった。

 「どうしようもないわたしが歩いている」
 「何を求める風の中をゆく」
 「まっすぐな道でさみしい」
 「酔うてこほろぎと寝ていたよ」
 「壁をまともに何考えていた」 

 気に入った句を見つけてはノートに書いた。
 全4巻の句集も買った。
 古本屋で日記を見つけては読んだ。

 山頭火は放浪の人だった。
 「歩かない日はさみしい」と書いている。
 行乞のつらさを日記にしるしながら、歩き続けた。 

 「うしろすがたのしぐれていくか」
 山頭火には自分を見つめようとする眼差しがある。
 自嘲。自らを嗤っている。
 それを映像で映し出すように詠んでいる。
 愚かな自分を嗤いながら、それでも愛おしんでいる。

 山頭火は山を愛した。放哉が海を愛したように。
 人は山派と海派に分かれるようだ。
 僕は山派である。川派でもあるけれど。

 「ほろほろほろびゆくわたくしの秋」

 

2009年11月11日水曜日

柔らかい月

 東京へ来て驚いたこと。
 それは冬の富士山だ。

 浪人していた頃、東村山に住んでいた。
 西武線に乗った時、ふいに富士が見えた。 
 凄い!ありがたい。手を合わせたくなる。

 「富士には、月見草がよく似合う」か。
 太宰、よく言った。おれには富士は富士だけでいいけど。
 学生の頃、太宰を読みながら、中島みゆきを聞いた。
 暗い。すすんで暗い道へ進んだのだ。

 大学3年かな。プチ引きこもりをした。
 引きこもりなんて言葉が無い頃だ。
 ほんの何日か極力アパートにいた。

 中島みゆきの新しいアルバム「生きていてもいいですか」
 こればかりを繰り返し聞いていた。
 大学の同じ少林寺拳法部の友人が4人訪ねてきた。

 中島みゆきを流していたら、武藤くんが言った。
 「よしい、これ暗いから止めてくんない?」
 中島みゆきは唄ってた。
 「エレーーーン、生きていてもいいですかとー」。
 あーー、オレは暗くて重いんだと、漸く気づいた。
 やっと、ラジカセのストップを押した。

2009年11月10日火曜日

小さい秋

 拝島駅から西武新宿線に乗る。
 玉川上水を横切る一瞬がある。
 いつも、その一瞬に川を見る。

 新緑の頃は若草色のトンネル。
 紅葉の頃は錦色のトンネル。
 それらを眺める一瞬の至福。

 玉川上水駅までは乗車客が比較的少ない。
 紅葉の時期は線路に平行して走る玉川上水の並木を楽しむ。
 「世界の車窓から」で取り上げて欲しいくらいだ。
 「ちい散歩」の方がいいか。

 サトウハチローの「小さい秋」。
 守門村(現魚沼市)須原の祖母の家。
 もう無くなってしまった古い家を思い出す。
 北向きの階段箪笥を昇った処にあった高窓。
 そこから守門岳が見えた。

 「小さい秋」の歌を頭の中で反芻する。
 祖母の家と、浪速屋の柿の種の四角い金属の容器の
 外側に描かれた昔の農家の情景。
 この二つを思い出す。

 「なんぼう考えてもおんなじことの草枯るる」山頭火

2009年11月9日月曜日

秋のソナタ

 冬のソナタ。
 僕は見た。知り合いのぺ・ヨンジュンファンが
 見なさいと貸してくれたのだ。
 
 昔の日本の昼ドラの匂いがした。
 熱くくどい。でも最後まで観た。
 チェ・ジウじゃなくてぺ・ヨンジュンはいいなと思った。

 秋のソナタ。イングマル・ベルイマンの映画。
 あまり憶えてない。
 ベルイマンの映画は高田馬場の早稲田松竹で観た。 
 「処女の泉」は驚きだった。
 「叫びとささやき」は怖かった。
 テレビで観た「ある結婚の風景」。結婚は恐ろしいと思った。
 吉田拓郎の「結婚しようよ」と全然違ってた。

 映画は監督で観る時期が続いた。
 フェリーニの「道」「8・1/2」「女の都」「サテリコン」。
 キューブリックの「2001年宇宙の旅」「時計仕掛けのオレンジ」
 「シャイニング」。ヒッチコック「鳥」「裏窓」「サイコ」等々。

 黒沢明「蜘蛛の巣城」「生きる」「七人の侍」。
 ルイス。ブニュエル「アンダルシアの犬」「皆殺しの天使」。
 ヴィスコンティ、小津、ゴダール、溝口。
 デビット・リンチにブライアン・デ・パルマ。
 パトリス・ルコント、ピーター・グリナウエイ。竹中直人は新しい。

 去年、友人の岩井氏から寺山修司を借りた。
 「田園に死す」「書を捨てよ、街に出よう」は衝撃だった。 
 中学で観た「ジョニーは戦場に行った」と高校で観た
 「イージーライダー」以来だったかも知れない。
 
 

2009年11月8日日曜日

北のまほろば

 昔見た夢。
 一人で島を歩いている。
 夢の中では、北の樺太のような島。
 岬には白い灯台があった。
 そんな光景を夢の中で何度も見ている。

 11/6(金)にNHK総合で放映された「世界一番紀行」。
 高校の友人で俳優の大高洋夫が旅人として出ていた。
 新潟日報で「ナジラネ」と言うエッセイを大高が書き、
 僕が挿絵を担当して、もうすぐ2年が経つ。

 彼がシベリアの世界で一番寒い村を訪ねていた。
 以前にBSやハイビジョンで放映されたものだ。
 極寒の世界に生きる人々の生活が素朴に描かれていて面白かった。

 寒いところは好きではない。けれど北に憧れる。
 南の楽園はたしかに素晴らしいだろう。
 以前行ったハワイは素晴らしいリゾート地だった。
 ゴーギャンが住んだタヒチも素敵だ。

 けれど夢に出てくるののは北の大地だ。
 小学生の頃はムーミンシリーズ本を読んでいた。
 フィヨルドに憧れる。礼文島にも行ってみたい。
 オーロラが見られたら感動するだろうな。
 
 そういえばチェコも東欧だが北国だ。
 チェコにアニメに刺激されてアニメを描き直している。
 あっ、でもプロントくんは南の島生まれだ。
 けれど彼が旅した先は、きっと北国なのだろう。

2009年11月6日金曜日

ぼくらと遊ぼう

 チェコのアニメを見た。
 今日が最終日だった。

 ロシア(ソ連)のアニメ「チブラーシュカ」。
 同じく「霧に包まれたハリネズミ」のノルテンシュタイン。
 チェコのアニメもシュヴァンクマイエルは以前に見ていた。

 仕事帰りで初めは眠かったけど、10分程度の
 密度の濃いアニメ作品にどんどん引き込まれていった。
 共産圏の崩壊の前の作品がほとんど。
 製作に様々な規制があったに違いない。
 けれど、それを創作のバネにしているように感じられた。

 アニメだけど、ちっとも子ども向けに見えない。
 寓意的で象徴的な主題。陰影の深い画像。
 質感に拘った表現。長く暗い冬を持つ人たちの世界だ。
 けれどユーモアもある。

 昔見た「ウルトラQ」。今見ると子ども向けらしくない。
 8マンなんてタバコ吸うしな。共通しているのは
 「子どもはこんなもんだろう」と言う決めつけがないことだ。
 面白かったら、難解なものでも子どもは面白がる。
 分かるか分からないかが問題ではないのだ。
 心にざらっと引っかかるかどうかが大切だと思う。

 尊敬する友人、ケダモノ中西氏から「ブログに書くな」
 とメールが来た。せっかく「それ行け!中西くん」
 を連載するつもりだったのに。。残念!

2009年11月5日木曜日

B級グルメ

 アニメを試し撮りした。
 うーーーーん。まあこんなものか。
 音楽を付けるとか、どう発表するかなどと書いた。
 
 リズムがなーー。絵がどうとか、構成がどうとかではない。
 アニメの動きのリズム、場面の移り変わりのリズム、
 つまりシークエンスが今イチどころか、今サンだな。

 描くつもりだった、海底都市も面倒になって止めた。
 描き足して、編集し直そう。
 今年はアニメ制作の年にしよう。あと2ヶ月もないけど。

 TBSで始まったドラマ「深夜食堂」。なかなかいい。
 ビッグコミックオリジナルで連載されてるマンガが原作。
 それを忠実に実写化しる。主役の小林薫。似合っている。

 週に二回は通うモツ焼き「百薬の長」。
 名店だ。佇まいがまず良い。木造で昭和の雰囲気。
 店内はカウンターのみ。マスターが一人で切り盛りしている。
 
 マスターがいい。風情があって人柄が良い。
 メニューは多くなく、売り切れ続出。
 いつぞやは、チーズと梅干ししかなかった。それでも飲む。
 安くて美味しい。美味しいにも色々あって、
 ここは飽きのこない味だ。だから毎日でも飽きない。
 (週5日行ったことがある。友人の岩井さんは毎日?)

 場所は、教えない。小さな店内は十二、三人で満席だ。
 人が増えたら自分が入れなくなる。
 ほとんどが一人でやってくる。職種はさまざま。
 平均年齢は異様に高い。楽しい常連が多い。
 
 そう云えば「深夜食堂」もカウンターのみだな。
 明日はレバ刺しで一杯やりにいこう。 

2009年11月3日火曜日

裏通り

 寒いと思ったら、北国に雪の便りが届いた。
 例年よりずいぶん早い。
 温暖化のはずなのに。

 僕の子どもの頃、初雪は大体11月だった。
 紅葉が終わりの頃、寒い朝にカーテンを開ける。
 庭に一面の雪。長い冬のはじまりだ。
 名僧良寛も「冬夜長し」と云う漢詩で
 雪降る夜の長さ、大変さを詠んでいる。

 あの頃日本海側は、裏日本などと呼ばれていた。
 冬に積雪は2mを超えるが普通だった。
 毎日、毎日雪。一晩で1m積もることもあった。

 それでも、初雪の日の美しさは格別だった。
 母もよくそう言っていた。

 裏日本に生まれ育ったせいだろうか。
 仕事で毎日新宿に通っているが、裏通りを好んで歩く。
 あまりの人混みを避ける意味もあるが、単純に面白い。
 裏通りの猥雑さ、混沌とした感じ、思いがけない発見。
 人間臭く、人生を感じる。

 裏日本に生まれ育ったことは関係なく、
 自分の生き方が裏通り向きなのだろう。
 あっ、オレはBack Street Boy か。
 

2009年11月1日日曜日

二流の人

 友人であるケダモノ中西さんからメール。
 「日記が面白い。一年続けたらアル中じゃないと
 認めてやるよ」だってさ。はははは。

 ビートルズ研究会で仲間のリコ先輩みたいに
 「よしいさんの青は素敵ねーー」と何で素直に
 絵を褒めてくれないのか・・。まあいいけど。

 「レクイエム・怪獣と大ロボットシリーズ」も
 前回個展の「洪水のあと」も「暗いね・・・。」と言われる。
 実は「キャットくん」も「あくまくん天使」も
 別に明るくない。キャラクターが可愛く?見えるだけだ。

 今回のプロントくんは、明るい絵にしようと決めて描いた。
 アニメの原画を写メールで知り合いに送った。
 昔のバンド仲間、粟飯原さんに「哀愁がある」と返事が来た。
 勿論、褒め言葉と信じている。

 ちょっとしたベストセラーになった本「怖い絵」。
 3巻まで出ている。まだ1巻しか読んでないが面白かった
 たぶん3巻まで読むだろう。
 その中にはいかにも怖い絵と、えばドガの「踊り子」の絵のように
 一見怖くない絵もある。
 実は怖い絵だったと言われた絵の方が、脳裏に残った。

 「洪水のあと」の絵を見て、明るくなったね元気にそうに見える、
 言ってくれた人もいた。考えてみれば名画と呼ばれる作品に明るいと
 単純に言える絵はあるのだろうか。
 
 僕のライバル、ダ・ヴィンチの「モナリザ」もフェルメールの
 「青いターバンの少女」も宗達の「蓮池水禽図」も梁楷の山水画も
 明るい絵とは言えない。ピカソの人気シリーズ「青の時代」なんか
 色調も主題も暗い。

 明るい・暗いと言う二元論が面白くないんだな。
 僕はよく「よしいさんは明るいですね。悩みなんかないでしょう」
 と言われる。面倒だから「はい」と答える。

2009年10月29日木曜日

プロントくんのアニメ

 アニメを描き終えた。
57枚。たぶん1分強のミニミニアニメになる。

 10年前、取り組んで挫折した「キャットくんとふしぎなプール」。
 今ラフスケッチを見ると、アニメのことが少しも分かってない。
 今だって分かってないのだが、動きの大切さは学んできた。

 いつか他の制作を中断してアニメに取り組もうと夢想しては挫折。
 アニメの絵より、素描やキャンバスに向かう方を選んできた。
 いや、逃げ込んでいたのかもしれない。
 
 前回の個展「洪水のあと」を終えて、もう一度未消化だった
 「プロントくん」を取り上げようと考えたのがきっかけとなった。
 新しいホームページを藤塚さんに作って頂いたことも、新しい制作に
 挑む動機になったように思う。

 来週撮影予定だ。
 上手く動いてくれるといいのだけれど。

 描き終えて、絵本「ひとまねこざる」のジョージの絵が頭に浮かんだ。 
 たむらしげるさんの絵やアニメもだ。
 創作者としては普通は書かないことかもしれないけれど、
 ボクは影響を受けていることを、むしろ誇りに思っている。
 
 音楽も依頼して付けて貰うつもりだ。
 楽しみだな。
 




 

私のお気に入り

 ジャズを聞くようになったのは30歳頃からだろうか。
 
 それまでは食わず嫌いだった。
 同じ職場にいたI氏がそれを治してくれた。
 ビル・エヴァンス、セロニアス・モンクに始まって
 サラ・ヴォーン、マイルス・デイビス。
 「だんだん、サックスが良いと思うようになりますよ」
 言われた通りだった。

 チャーリー・パーカーにジョン・コルトレーン。
 クイント・イーストウッド監督の映画「バード」も観た。
 チャーリー・パーカーの伝記映画である。
 NHKで放送した、「ジャズの歴史」。たぶん英BBCの
 制作だったと思う。いい番組だった。

 村上龍が、ジャクソン・ポロックの画集に解説を書いていて
 コルトレーンとの共通点を指摘していた。
 彼らの共通の特徴は「埋め尽くし」だと。 
 上手いこと言うなと感心した。

 破滅型の天才という点も共通している。
 コルトレーンはドラッグ中毒、ポロックはアル中だった。
 コルトレーン、ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス。
 みんな身を削るような音を創り出して、早逝した。
 良いも悪いもそういう生き方しか出来なかったのだろうと思う。
 ポロック、ゴッホもそうだ。

 セザンヌやモネは老齢まで生きながらえて、
 その作品は益々輝きを増した。
 普通は晩年に作品の質が落ちる。ピカソも例外ではない。
 技術が衰えるのでなく、制作の動機が減退するからだろう。
 
 酔いどれの無頼派の画家、長谷川利行は
 「芸術は人生に値するか」に対して
 「人生は芸術に値するか」と言ったとか。

 コルトレーンの「私のお気に入り」はいつ聞いてもいい。
 ただし仕事中だと仕事を止めたくなってしまうけれど。

2009年10月27日火曜日

ポンペイの壁画

 古代ローマの美術展に出掛けた。
 上野の西洋美術館だ。

 実を言えば古代ギリシャのクラッシック以降、古代ローマ
 の美術は好きでなかった。
 ルーブルで「サモトラケのニケ」や「ミロのヴィーナス」を
 見ても、いささかの変化もなかった。何故か?

 あまりに技巧的なのだ。「仏作って魂入れず」という感じかな。
 同じギリシャ人が作っても「ガンダーラ仏」は素晴らしい。
 前にも書いたが、主題、精神性はやはり重要なのだ。

 けれど、古代ローマの絵画は違う気がしていた。
 実物を見た。灰に埋もれた「ポンペイ」の壁画である。
 良かった。彫刻に比べると、拙さ、未熟さはあるのだが、
 逆にそれが魅力に思えた。

 展示の仕方も良かった。
 壁画は当時の家屋に合わせて展示されていた。
 出口近く、巨大液晶画面による映像での解説も驚いた。 
 発掘されたポンペイの街の現在の様子と、研究によって明らかにされた
 当時の生活のCG映像が合体して、タイムトラベルした気分になった。 
 
 2千年も前のローマ人の息づかいが感じられた。 
 
 
 
 

2009年10月26日月曜日

中越地震 その2

 火曜日には電気が復旧していた。
 テレビニュースでは地震の被害をトップで伝えていた。
 ガスも水道も止まっている。余震は続いている。
 
 けれど、チャンネルを変えればプロ野球やバラエティなど、
 地震とは無縁のいつもの日常があった。
 自衛隊が救援に来ていた。
 自衛隊がこの町に救援に来たのは38年の豪雪の時以来だ。
 あの時は町全体が雪に埋もれていた。4mはあったと思う。
 次の年に新潟地震があった。

 夜も震度4くらいの余震が次々に来る。
 布団で寝ていても何度も目が覚める。
 目の前の大きな箪笥が倒れたら、大怪我ををするだろう。
 次の日、40キロ離れた母の郷里守門村に電話した。
 母は祖母に会いに帰っていたのだ。
 その時だ。

 大きな地震が起きた。ソファに座っていたが全く動けない
 後で聞いたら、震度5強だった。
 23日の地震は震度6.誰も動けなかったはずだ。
 余震が恐ろしくて、家の中で寝られれない人もいた。
 母を迎えに守門までいった。いつもの道は不通なので
 柏崎経由で、片道4時間近くかかった。往復8時間弱。
 余震は1週間経っても続いていた。

 終

2009年10月25日日曜日

中越地震

 一昨日のことだ。
 帰りの電車の中で、車内の液晶テレビを観ていた。
 「中越地震」から5年の記事を見た。
 
 その時、携帯が振動した。
 新潟の友人、正敏くんからのメールだった。
 同じ同級生の高野昭人くんが、片貝中学校で講演会を行い
 その後に同級生がお祝いに集まってると書いてあった。
 返事にお祝いを述べ、地震から5年たったなあと書いた。

 5年前の10月23日。土曜日だった。
 仕事の後で、行きつけの飲み屋「百薬の長」で飲んでた時に、
 グラッと来た。勘定をして、駅に向かう途中でメールが着た。
 同じ中学で東京在住の準子さんからだった。
 「中越で酷い地震が起きた。電話をしても通じない」と。
 実家に電話しても、友人の富士雄くん、孝雄くん正敏くんに電話しても
 通じない。大したことはないだろうと、タカを括っていたが
 次の日曜日に車で実家に帰ることにした。

 朝の五時に家を出た。出る前に富士雄くんに電話したら通じた。
 破損などの被害は酷くないが、電気・ガス・水道全部ストップだ、と。
 湯沢まで何事もなく、順調に行けると思われたが、湯沢で高速が不通
 になり、国道17号線も不通だった。カーナビはなく、不慣れな山道
 を迂回して何とか郷里小千谷市の隣、川口町までたどり着いた。

 それまで普通だった様子が一変。町の中心に行くと、家々の所々が壊れ、
 交通信号機が停電。さらに進むと、アスファルトの道の片側が陥没。
 これはただ事ではない。あと少し。先の橋を越えれば小千谷市だ。
 「橋は壊れて通れない。小千谷に行けるルートは分からない。
 トンネルも崩落などで、ほとんど不通だ」と、橋の手前で言われた。
 飲み物を買いに車を出た時、「ドン」と言う大きな音とともに縦揺れがきた。
 体験したことのない揺れだった。

 迂回して迂回して、昼過ぎに柏崎に入る。
 富士雄くんに電話して、一人で居た父の無事を知った。
 長岡から小千谷に向かうがことごとく不通。車の調子もおかしくなり、
 やむを得ず帰京。車を修理に出して、再び小千谷に行ったのは
 地震から4日たった26日火曜日だった。
 
 つづく(かもしれない)

2009年10月23日金曜日

秋刀魚の味

 映画を見る機会が減った。
 映画と言ってもほとんどがビデオだが。
 それが、減った。

 10年前までは、レンタルビデオ屋に通っていた。
 大学生の頃は、早稲田松竹、パール座など名画座に出掛けた。
 高校生の時、映画は一番の娯楽だった。
 中学校の時は、映画を見ることが一大イベントだった。
 映画館のなくなった片貝町では夏になると、小・中学校の体育館で
 名画上映会があったのだ。

 「宇宙大戦争」「四谷怪談」「アタックNO1」
 「唐獅子牡丹」など子どもから年寄りまで楽しめるラインアップ
 のため、書いてみるとメチャクチャな組み合わせだ。
 しかもその頃でもだいぶ古い映画だった。
 でも楽しかった。

 村上春樹が「遠い太鼓」というヨーロッパ滞在記の中で、
 ギリシャの小さな島の映画館のことを書いている。
 読んでいて、小学校の体育館を思い出した。

 今年観た映画は映画はわずかに五本。
 この10年で最も少ない。
 「秋刀魚の味」「田園交響楽」「ベニスに死す」
 「不思議惑星キンザザ」「くじらとり」
 「くじらとり」だけ、ジブリ美術館のシアターで観た。

 「フェリーニの映画は大変なご馳走です」。
 かつてジョン・レノンはインタビューにこう答えている。
 確かに良い映画を観ると、お腹が一杯になる感じがする。

 新宿の劇場で「チェコアニメ映画特集」をやっている。
 行こうかなと思っている。

 「木の葉ふる空が秋になりきった」山頭火
 
 
 
 

2009年10月21日水曜日

されど私の人生は

 「もう、どうでもいいのさ
  つまらないことは考えないで
  そこからの道を急ぐのさ
  それがもっとも肝心さ」

 斉藤哲夫の歌と出会ったのは、高校時代隣の高校の文化祭だった。
 フォーク研のメンバーが「悩み多き者よ」を演奏してたからだ。

 その後武田鉄矢がパーソナリティを務めていた「青春大通り」で
 「されど私の人生」「バイバイグッドバイサラバイ」などを聞き、
 とても好きになった。

 「変わる、変わる目の前が。変わってそれでおしまいさ。
  されど私の人生は、されど私の人生は。」

 確か司馬遼太郎が書いていたと思うが、「高度成長」は
 日本史において明治維新や敗戦よりも、大きな変化を
 もたらしたかも知れないと。

 僕が生まれた頃の新潟の田舎町片貝は、まだ牧歌的な雰囲気があった。
 明治以前から長く続いた農村と言う共同体の性格を持っていた。
 フォークやニューミュージックで言うとかぐや姫の「ひとりきり」
 やガロの「美しすぎて」で美化され、賛美された世界。
 スピッツの「夢じゃない」もそんな世界への憧憬が表されていると思う。

 未開(失礼な言い方ではある)の世界の人たちが近代文明を拒否
 しているのは、必要がないからだろう。もしも彼らの環境が残される
 ならばの前提でだが。
 進化と呼ばれるある変化は私たちの‘弱さ’のせいではないのか。
 時々そう思うのだ。
 
 宮本常一の「忘れられた日本人」を読むと、近代化する前の日本の姿が
 理解できる。そこには近代とは別の合理性を持った文化と思考が伺える。
 昔が良かったとか、そういう事ではない。自分が生きている世界や時代の
 基にある日本の姿を知っておいた方が良いのではないか。
 不勉強な自分にそう言いたい。

 いかん、今日もマジメになってしまった。年のせいかな。

 「これでいいのだ」赤塚不二夫

2009年10月20日火曜日

どうにかなるさ

 かまやつひろしの「どうにかなるさ」。
 好きな曲だ。中一の時初めて買ったレコードかも知れない。
 
 よく考えてみると、日本の歌には男が去っていく歌が結構ある。
 「どうにかなるさ」チューリップ「心の旅」岡林「流れ者」
 マチャアキ「さらば恋人」ジュリー「サムライ」。
 みな男が勝手に去っていくストーリーだ。

 ビートルズや他の洋楽ではあまり見られない気がする。
 たいていは「なぜ僕を捨てたの?」とか「行かないでくれ」だ。
 せいぜい「いい加減にしないと、オレは行っちゃうぜ」くらいだ。

 日本の男が西洋の男より強いからか。違うな。
 逆じゃないか。歌にはその国や地域の文化の欲望が現れる。
 欲望は普通実現できない願望が現れる。
 勿論、女を振る男もいるし、その逆もある。
 けれど、女を振り切ってさすらいの旅に出たことのある男を
 僕は知らない。聞いたこともない。
 でも僕はこれらの歌がみな好きだ。
 やはり憧れが込められているからだろうか。

 1980年代に書かれた村上龍、坂本龍一と毎回違うゲストに
 よる鼎談がまとめられた本「EV.Cafe」に日本の歌謡曲の歌詞
 の酷さが書かれていた。
 知り合いの日本史の先生が酔うとよく古い歌謡曲を歌ってた。
 彼がこう言ってた。「昔の歌は三人称で書かれていたんだよ」。
 成る程、確かにそうだ。プロの作詞家が書いた歌には情景が見える。
 昔、懐メロ番組を見て気に入ると、紙に歌詞を写したものだった。
 東海林太郎の「国境の町」とか春日八郎の「別れの一本杉」とか。
 小学生の頃だったと思う。
 
 ぼくはフォークが好きだから、シンガーソングライターの歌も好きだ。
 ユーミンも中島みゆきも初期の作品は大好きだ。
 体で感じた感覚、愛おしさや切なさが言葉になっているからだ。

 昭和レトロブームの中で、もう一度昭和の歌謡曲の詩の世界が見直されて、
 風景が、人やものの細部が、光や風や手触りが感じられる
 そんな歌が生まれるといいなと思う。

 「かたはらの秋草の花かたるらく滅びしものはなつかしきかな」牧水
 
 
 
 

あのねのね

 あのねのね「今だから愛される本」。
 その中で清水邦明がニーチェが好きだと書いていたから
 高校時代にニーチェを読み始めた。

 あのねのねの唄で一番有名な「赤とんぼの唄」。
 「赤とんぼの羽を取ったら油虫」。そしてまた
 「油虫に羽をつけたら赤とんぼ」。
 ニーチェの永劫回帰である。

 飲み会の二次会でカラオケにいった。
 あのねのねの「流転の唄」があって、ビックリ。
 当然?そこにいる誰も知らなかった。
 この唄も永劫回帰のイメージが唄われている。

 あのねのねのオールナイトニッポン。
 よく録音してた。途中で寝てしまう時があるからだ。
 「パーティは終わったよ」「別れの哀しみ」
 「愛の調べ」 「雪が降っています」等々、
 普段のコミカルでない曲の中に佳作があった。

 加藤和彦氏が亡くなられた。
 まだ小学生だった頃「ヤング720」と言う番組があった。
 朝の7時台から、フォークのライブを流すような番組だった。
 その番組の司会が加藤和彦。朝の全国ネットでジーンズに凄い長髪。
 おおーっと言う感じ。あの時代だから出来た番組だろう。
 サディスティック・ミカバンド。かっこよかった。

 高校時代の友人、荒木の家で「黒船」を聞いた。
 荒木の姉さんが持っていたのだ。
 ロックなサウンドの中にフォークが混在してた。
 デレク&ドミノスや、フリートウッドマックのアルバムみたいに。
 「もしも、もしも、もしも」が好きだった。

 つづく。(今日の語りは「プロジェクトX」調です)

2009年10月18日日曜日

画家のノート

 大学生の頃。
 バイトでお金が貯まると、普段買えないモノを買った。
 ‘白もの’と言われたみすず書房の本だ。
 当時、尊敬してやまなかった20世紀フランスの巨匠
 アンリ・マチスの「画家のノート」。
 5千円もした。でも嬉しかった。

 「意識的に習得した事柄は、ある種の豊かさを持って
 自分自身を無意識に表現することを、
  可能にしてくれます。」
 「わたしはあらゆる影響を怖れない」マチス

 ライバルはと聞かれると、いや実は誰も聞きはしないのだが、
 「レオナルド・ダ・ヴィンチ」と答えることにしている。
 例外なく笑われる。実はホッとする。「やっぱり・・。」とか言われたらむしろ怖い。
 じゃあ冗談なのかと、言われれば半ば本気なのである。あとはピカソとか。
 キチ、いや誇大妄想狂なのだろう。
 いや、間違いなくそうだと言える。
 けれど、芸術家と言われるほとんどの人はそうなのではあるまいか。 

 だが、日本の画家、例えば俵屋宗達には敵わない気がしている。
 これはレオナルドより宗達が上だとかそう言うわけではない。
 同時に、中学校や高校時代の美術教師だった恩師にもまだまだ及ばないと思う。

 けれど「オレは世界で5本の指に入る芸術家だ」とか言ったりする。
 日本では5本の指に入らない。矛盾している。
 これは、モツ焼き「百薬の長」で飲み友達の「なかちゃん」こと
 中田さんの受け売りだ。
 だけど、確かにそんな感じもしているのだ。

 ピカソや、マチスには敵わなくても
 ドンキホーテのように闘いたいのだ。

 「君の愛を伴い、君の想像を伴って、君の孤独の状態へ赴け。
  私を見よ。自らを超えて創造しようしようと欲し、
  かくして滅びるものを、私は愛する」ニーチェ

2009年10月17日土曜日

音楽寅さん

 桑田佳祐のミュージックタイガー。
 以前のも面白かったけど、今回も良かった。終わったちゃったけれど、ビデオで見ている。

 お気に入りはラーメン屋「フォーク軒」のフォーク特集。
 遠藤賢司の「カレーライス」フォーククルセイダース「あの素晴らしい愛をもう一度」
 ベッツー&クリス「白い花は恋人の色」吉田拓郎「結婚しようよ」。どれもいいなあ。

 以前の寅さんでは「網走刑務所慰問」の時にフォーク特集でライブしてた。
 泉谷しげるの「春のからっ風」を聞いて、改めて泉谷のCDを聞いたりした。
 ロックもいい。ジャズもクラシックも歌謡曲、演歌も好きだ。
 けれどやっぱりフォークはすごく好きだ。

 中学生でビートルズに夢中になってた時。日本の歌はフォークばかり聞いてた気がする。
 仲の良かった直登くんの姉さんが岡林信康のベスト盤を持っていた。それを借りて聞いた。
 「ガイコツの唄」「流れ者」を聞いて放浪に憧れた。まだ中一の時だった。
 同じ時期に時々車で遊びに連れて行ってくれる、親戚の筆屋の兄さんのカーラジオから、
 五輪真弓の「少女」が流れて、衝撃を受けた。
 「悲しそうに、見ていたの。夢が大きな音をたてて、崩れてしまったの。」
 この唄は子ども時代の夢が壊れて、大人になる瞬間が唄われている。
 
 飲み友達の文学者岩井さんに、「ブログの文章は、見られることを相当意識してるな。」
 と言われた。当たり前田のクラッカー。(痛い)だって意識しなかったら、シロウトの僕は
 暴走して下ネタに走るかもしれないし。

 そういえば、「あおいくんと佐藤くん」大石吾朗のコッキーポップ」「オールナイトニッポン」
 それらを聞いて洋楽もフォークも聞いて憶えた。清志郎の「トランジスタラジオ」みたいに。
 ‘あのねのね’のオールナイトニッポン、面白かったな。
 フォーク特集を聞くと、記憶の函のフタが開くみたいだ。

2009年10月15日木曜日

円環の廃墟

 軍艦島へ行ってみたい。
 近代日本の繁栄とその崩壊が、端的に現れているからだ。

 仕事で毎日のように新宿に通っているが、高層ビル群が廃墟になっているところを夢想する。
 2006年の個展「レクイエム・怪獣と巨大ロボットシリーズ」では、人間のいない世界で
 人間の創造物である怪獣と巨大ロボットが、人間のために「レクイエム(鎮魂歌)」を唄ってる
 そんな世界を表現した。

 廃墟ブームは以前から密かにあったが、映画「千と千尋の神隠し」の冒頭部分、
 廃墟になったテーマパークの描写によって火がついたように思う。

 ラテンアメリカ文学の巨匠ボルヘスの作品に「円環の廃墟」がある。
 ボルヘスを読むようになったのは、古い友人であるI氏が「読んでみてください」と
 貸してくれたからだ。
 
 こんな短編があった。
 主人公は周りに存在する天使達が、実は実体のない存在であることに気づく。
 しかし最後に彼自身がその天使達と同じ実体のない存在だと気づくのである。

 フィリップ・ディック原作の映画「ブレードランナー」でも
 主人公が実は人間ではなく、人造人間ではないのかと思わせる。
 人造人間はねつ造された過去を持つ。
 
 考えてみれば、過去は物語のようなものだとも言える。
 僕たちは、過去を振り返る度に過去の物語を新たに創り出しているのだ。
 しかし、自分の過去に何一つ確信が持てなくなったらそれは怖いことだろう。

 「去年マリエンバードで」と言う映画では、主人公の女性が見知らぬ男性に
 「去年マリエンバードで会いましたね?」と尋ねられ、最初は否定する。
 しかし何度か同じ質問をされている内に確信が持てなくなってしまう。

 I氏からのメールを読んでそんなことを思い出した。
 

2009年10月13日火曜日

やっぱり、まんま!

しろめしが好きだ。
麺も好きだが、同じ麺を365日食べたいとは思わない。
パンも悪くない。でも頑張って一日一回が限度かな。 

そう考えると、白米の偉大さが分かる。
毎日OK。一日3度でも全然かまわない。
刺身に合うのは日本酒だが、
もっとあうのは白米だ。
魚の旨味がより豊かになる。
寿司でなくても、白米で充分。

生まれが新潟県小千谷市。つまり魚沼地方である。
けれど自分では米の味にうるさいと思ったことはない。
それでも魚沼米は旨い。

高校時代の友人、小酒井くんが今年もお米を送ってくれた。
勿論、魚沼米の新米だ。
小酒井くんが知り合いの小千谷の農家から
直接買ったものを送ってくれているのだ。
美味くないわけがない。ありがたい。

たぶん、大学生の頃。車で長岡市の郊外を走っていた時、
巨大な看板を田んぼの脇道で見つけた。
そこにはアントニオ猪木そっくりのイラスト。
ランニングシャツ姿で、右手に箸、
左手には白米の入ったお茶碗。
そして大きな文字で「やっぱり、まんま!」。
端っこには長岡農協青年団の文字。
昔はこんなローカルな手作り看板を時々見かけたものだった。

友人の室橋くんと秋田を旅した時の事、
細い道の脇に「ドライバー、脇見をしても美人なし」の立て札。  
暫く行くと「美人多し。注意!」。
ともに地元の青年団作である。

「まんま」とは魚沼方言で白米のことである。
詩人の高橋睦夫氏は雑誌で「日本人の歴史は、
白米に対する憧れの歴史だった」と述べていた。
そしてこう続けている。毎日食べられるようになって、
お米に対する愛情が醒めてしまったと。
ちょうど結婚によって恋愛感情が醒めてしまうように。

「最後の晩餐」に何が食べたいか。
僕は迷わず答える。「菜飯」と。
「菜飯」は食用に作られた、大根菜を塩茹でにしておく。
それを冷飯と炒めるだけのチョーシンプルな料理。
味付けは塩胡椒にお好みで醤油を少々。
これが美味い。
 
あー、菜飯が食べたくなった。
でも、食用の大根菜って東京じゃ見かけないしな。。

「ぽろぽろ冷飯ぽろぽろ秋寒」山頭火

2009年10月12日月曜日

晩年

 「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」

 子規の「病床六尺を読み終えた。
 私的な日記かと思ったら、初めから新聞「日本」に掲載する目的で書かれたとのこと。
 結核のため、下半身が不自由で動くことがままならず、病床から離れられなかった、
 子規のまさに晩年の手記である。
 子規は35歳の誕生日の直前に亡くなった。彼の30代は病床の中にあった。
 苦痛に身悶え、時折愚痴を吐きながら、彼の文章に迷いが感じられない。
 「今度の春を迎えられだろうか。」そう思いながら、子規は句を歌を、絵画を、芸能、風俗を
 食べ物を、そして文明を語るのだ。平明でありながら、言葉に強さがありイメージの輪郭が
 とても明確に感じる。彼には死を前にした覚悟があり、残りの人生で何かを成し遂げようという、
 強烈な自我と自信があった。
 それが冒頭の有名な句を生み出したのだろう。

 人は何時から晩年を意識し生きるのだろうか。
 太宰の初めて出版された小説集のタイトルが「晩年」だった。
 友人のI氏から個展前に頂いたCDがブラームスの「晩年」だった。
 彼らは若くして自分の晩年を意識したのであろうか。
 人生50年と言われた頃は、それを意識し易かったのだろうか。
 
 40歳で亡くなったジョン・レノンは、ビートルズが解散してからが晩年だったのか。
 まさか。でも「亡くなる前に創られた、アルバム「ダブルファンタジー」の頃の
 ジョンを写真やインタビューで見ると晩年の老成した人のように感じられる。
 たぶん、思いこみだろうけど・・。

 時々、この人生でやりたいことはみんなやった、そんな傲慢な思いに囚われることがある。
 もちろん、やりたいことはあるし、行って見たいところ、経験したいこと、食べたいもの
 もある。けれど、若いときのようにそれらを渇望するような、激しさがなくなった

 版画家作田富幸くんの個展に出掛けた。3月に僕が個展をやった松明堂ギャラリーだ。
 作田くんの個展には、何度か出掛けている。近年、文化庁の給付でオランダに行ってから
 作品が良くなったなと思った。その前の作品にも立派なものが勿論あったが。
 今回の展観は、非常に緻密でシュールな銅版画作品に加えて、ボックスアートの作品や、
 版画作品の奇妙な人物群を拡大して、立体的にインスタレーションてされた作品など面白かった。

 矛盾するようだが、自分の残り時間を意識し始めて、逆にあまり無駄なことをしたくないなとも
 思うようになった。本当にやりたいことをやりたいし、良いものを見たり、聞いたり、読んだり
 したいと思うようになった。バラエティ番組も面白いのは見ているけれど。

 「かたみとて何か残さむ春は花山ほととぎす秋はもみじば」良寛
 
 

2009年10月11日日曜日

吉井宏の会

十数年前、2度目の個展の時のこと。
見知らぬ男性がこう言った。「よしいさんですか?」
「はい。そうですが。どちら様ですか?」
 「こういうものです。」
 
と男性は一枚の名刺を差し出した。驚いた。
 

名刺には「吉井宏」と書かれていたからだ。
名前の脇に小さくイラストレイターと書かれていた。
「‘ぴあ’に同じ名前の人間が個展をしているのを見つけて、
気になったので来ました。
変な絵だといやだなーと思って・・。でもこれならいいです。」
それがイラストレイター吉井宏さんとの出会いだった。

吉井さんは、CGつまりコンピュータグラフィックで描く
イラストの世界で超有名な人だと知った。

のちに僕は芸術家としては「よしいひろし」と
ひらがなで名乗るようになった。
イラストレイター吉井さんとであったこと、
尊敬するイラストレイターたむらしげるさんにあやかったこと、
そしてひらがなは日本文化の中核である思ったこと、
以上三つの理由からである。

それにしても同姓同名の人が
同じ美術の分野にいることに驚いたが、
実はもう一人美術関係にいた。
造形教育体系シリーズで
「美術教育」について書いている吉井宏さんがいた。
まだいるかもしれない。
この日本に吉井宏という名前で創作活動をしている人が
他にもいるかも知れない。
そうしたら、全国吉井宏の会を立ち上げよう。
妄想は広がるばかりである。

 
それから10年以上たった、
新たな吉井宏の発掘には至ってない・・・。

2009年10月10日土曜日

LET IT BE

 LET IT BE は事件だった。
 それは小六の時だった。同級生の正敏くんがスキー授業の時、足を骨折をした。
そして見舞いの品としてビートルズのレコードを、父親に無心したと言う。

 それが巡り巡って、僕の処に来た。貸して貰ったのだ。
 それまでの音楽と違う。その当時家にあったレコードはドリフターズとか歌謡曲だった。
 ビートルズの音楽は脳に痺れた。小学校の校門前の坂を上がりながら、大きな声で唄った。
 「レルビー、レルビー!」と。

 浦沢直樹のマンガ「20世紀少年」。あの名作の中でも、それまで原っぱの秘密基地を
 喜んでいた少年達の一人がロックに目覚める場面が描かれいる。

 LET IT BE によって僕の青春時代が幕を開けた。そう思う。
 
 

2009年10月9日金曜日

BACK STREET BOYS

 Back Street Boys を聴いた。
 「笑っていいとも」でだ。

 歌は上手い。キャラクターも面白い。ポップスターとして言うことはない。
 その後で、改めて聴いた。音楽だけを。アレンジもいい。
 メロディーラインもきれい。しかしだ。あえて苦言を呈す。
 曲構成は単純だ。単純が悪いではない。ロックやポップスは単純さの中に
 面白さがある。けれど、その中にある種の過剰さ、過激さ、変化が欲しい。
 例えばパーカション。打ち込みの音みたいで変化がない。
 手触りというか、マチエール(質感)が乏しい。
 ビートルズは質感が尋常でない。それが彼らを非凡なものにしていると思う。
 まとまりが良すぎると、変化が乏しくなる。絵でも同じである。

 今日はジョンの生誕69周年だった。
 

2009年10月8日木曜日

東京日和

 抽象美術がある。
 ストライプだけの絵画や、四角い箱の彫刻。
 感情移入がしづらく、一般的に何が描いてあるの?と揶揄されたりするアレだ。

 画家ゴーギャンは「芸術とは一つの抽象である」と言っていた。
 具象的な作品でも、「花」とか「人物」のようにイメージが特定できるだけで、
 イメージは様式化され抽象化された線や形、色に還元されているからである。

 それでも再現的表現(具象)と非再現的表現(抽象)に分けることは出来る。
 ホームページを見て頂くとわかるが、僕も大学在学時から10年以上抽象画に
 取り組んできた。抽象美術は普遍性を目指す。ピラミッドが良い例だ。
 具象美術は個別性や現象を現す。
 敬愛する写真家、荒木経惟氏は「写真はセンチメンタルでいいんだよ」と言う。
 「センチメンタル」。抽象では難しいかもしれない。ポロックの成熟した絵画に
 おいては叙情性や感傷性(センチメンタル)が表されていたけれど。

 20年来の友人でビデオアート作家の浦崎勲さんから、作品集が届いた。
 1980年代に制作させたものを再編集したとのこと。
 ビデオアートは当時の最新技術だったビデオカメラ、デッキを使った映像作品である。
 浦崎さんの作品を見ていて、抽象と具象のことを改めて考えたのだ。
 カメラが映し出す映像は具体的である。それは1980年代の空気をストレートに伝えている。
 しかし、主題となっているのは普遍的な問いかけだと感じた。
 そして画面構成の造形スタイルは、ミニマルアートかと思えるほどシンプルで禁欲的だ。
 浦崎さんが、新しい作品に取りかかるとの言葉を嬉しく思った。

 子規は「写生」の重要性を説いた。「写生」より「観念」が重要とする文壇に異を唱えた。
 それでも、くどくどと描写するのでなく「簡素さ」「簡略のよさ」も認めていた。
 抽象と具象、客観と主観はともに必要なのだ。

 アラーキーは「センチメンタル」も「エロス」も表現する。「美」と「醜」の境界も希薄に感じる。
 大切なのは、自分にとっての「エロス」と「タナトス」を感じさせるものだろう、と思う。

 「どうしようもないわたしが歩いている」山頭火

 

2009年10月7日水曜日

プロントくんの冒険

 アニメーションを作っている。
 完成したら、1分くらいのミニミニアニメだ。
 タイトルは「プロントくんの冒険」。恐竜のプロントくんが、大海原を旅して人間の世界にたどり着く。
 
 アニメーションの制作は10年来の夢だった。
 抽象画の制作に一区切りつけたら、プロントくんが生まれた。
 続いて現れた「あくまくんと天使」シリーズの時、アニメのラフを初めて描いてみた。
 大学時代の友人で、「ドラゴンボール」「ワンピース」の作画監督を務めていた山室くんに見て貰った。

 アドバイスを貰ったが、実現しなかった。「キャットくんとふしぎなプール」の時は、アニメ専用紙に
 下描きまでした。でも断念した。絵本を完成して自費出版するだけで、精一杯だった。
 アニメーターでイラストレーターのたむらしげる氏に絵本を送ったら、アニメにしたら面白そうと
 返事をいただいたのに、だ。

 今度こそ完成するメドがたった。気負わずにモノクロのミニミニアニメでいいと割り切ったからだ。
 まだ撮影はしていない。絵は7割方完成している。次回の個展での上映や、ホームページでの
 公開も考えている。

 考えてみれば、最初に感動した映像作品は「鉄腕アトム」「鉄人28号」「8マン」だった。
 夢中になって見て、それらを繰り返し描いた。今でも100枚を超える保育園時代の作品がある。
 今と描いている内容があまり変わってないことに気づいた。

 僕のプロントくん、キャットくん、ロボットや怪獣はそれらのアニメに対する憧憬から
 生まれたに違いない。

2009年10月5日月曜日

人間だもの

 水道橋博士はブログの先達だったと聞いた。
 毎日ブログを書いても、反響は少ない。インターネットは割に合わないと
 嘆きながら毎日書き続け、今は人気のサイトと聞く。

 高校時代の友人小酒井くんからメールが来た。このブログについてだ。
 「オメさんはしゃべりと行動はケダモノらけど、文章は紳士らいね~」と。
 褒め言葉と受け取ったけど、反省した。
 もおちっと、勢いが足りんがらなーーーーと。(越後弁)

 スピッツの歌が好きで、時々聴いている。
 マサムネの詩はケダモノを人間より賛美しているように聞こえる。
 「汚れない獣には、戻れない世界でも・・」など。
 ケモノは高貴だという考えを背景に感じる。

 同僚だった友人達を主人公に、「ケダモノだもの」というエッセイを以前書いた。
 「日本に今必要なのは、ケダモノではないか」と書いた。

 チャップリンは「殺人狂時代」でこう述べている。
 「一人を殺せば殺人だが、百万人を殺せば英雄になる。
 数が行為を神聖化するのです」

 しばし考える。人間らしさ、ケダモノらしさとは何なのだろうかと。
 ゴーギャンが南の島で追い求めたのは、野生の持つ高貴さではなかったのか。
 
 「よこしまな僕も本当の僕」よしい
 
 

2009年10月4日日曜日

1Q84

怖い夢を見なくなった。

 
実際には今でも見るのだが、
すぐに夢だと気づく。
そして「もう起きよう」と決意し怖い夢は終わる。

昔は怖い夢から起きることは難しかった。
目が覚めても、夢の中にいるような気持ちだった。
何度も何度も見た夢がある。

夜、知らない家の知らない部屋に入って行く。
人は誰もいない。
そして行きたくない暗い部屋へ向かうのだ。
最後に真っ暗な部屋に入って夢は終わる。

今考えれば、真っ暗な部屋は自分の
無意識の世界だったのだろう。
そしてよく考えれば、勝手に暗闇を恐れているだけで、
夢の中で危害に遭っているわけではない。
 

落ちる夢を見る人がいる。
ボクは見た記憶がない。
落ちる夢も落ちてどうなる訳でもないのに、
勝手に落ちていることを怖れている。
恐怖のほとんどは恐怖を感じる人の
心が生み出しているのだろう。

村上春樹の「1Q84」を読んだ。面白くて一気読み終えた。
パラレルワールドは先端物理学の世界では、
想定されていると、テレビ番組で見たことがある。
夢の世界はパラレルワールドみたいなものかも知れない。

故事に「酔生夢死」がある。とても好きな言葉だ。
高校時代の参考資料では「つまらい生き方」
などと書いてあったが、酔ったうように生きて
眠ったように死ぬならばそんな幸せはないと思う。

戦国時代の武将、上杉謙信も辞世の句で
自分の人生は「酔生夢死」だったと書いている。
当時そのような考え方が流行っていたと、新聞で読んだ。

でも、夢と現実の区別が本当につかなくなったら、
それは悪夢そのものだと思う。

 「遠くて近きもの。極楽。舟の道。人の中。」清少納言

2009年10月3日土曜日

所沢ビエンナーレ

 先月のことだが、所沢ビエンナーレ「引込線」を見た。

 会場は西武鉄道の旧車両場。標準的な体育館の数倍はある建物がいい。
 天井が高く、長い線路がそのまま残っている。
 ちょっとレトロな外観・内観は、「工場萌え」の人でなくてもある種の感慨に浸るはずだ。
 現代美術の著名な作家が多く出品している。

 マチエールという美術用語がある。仏語で普通は「絵肌」の意味である。
 例えば、ある絵画を指して「磁器のように滑らかなマチエール」などと言う。
 絵画は平面でありながら、豊かな表情を持った絵肌が必要とされる。
 立体や彫刻作品でも当然である。
 日本でも鎌倉時代の仏像に意図的なノミの彫り跡を残したものがあるし
 焼き物などを見ると、画一的なつるっとした肌合いを好む西洋と比べ東洋、
 殊に日本ほど、焼き物の肌合いに拘った文化はないだろうと思う。

 美術には官能性と精神性(宗教にも似た)の二つが、その表現の中に求められる
 と考えている。仏像がそうだろう。宗教的な崇高さの中にエロスが現されている。
 エロスとは「性」だけでなく「生」そのものだと思う。

 現代美術の多くが観念的に偏りすぎてしまっているのかもしれない。これは自戒も込めてである。

 「引込線」の中で、二つの作品に惹かれた。
 一つは200号くらいの油彩の抽象画。もう一つはタペストリーを用いたインスタレーション作品。
 いずれの作品としての明確なイメージや佇まいを持ちながら、表情豊かなマチエールを感じた。

 大リーグのイチローじゃないけど、一見凡庸に見える繰り返しが重要なのだ。
 職人的な技術の積み重ね、それだけが偉大な記録や表現へ至る道なのだろう。
 「歌を忘れたカナリヤ」は、再び歌を学ぶしかないのだ。

 「才能なんて、クズの積み重ねだ」ジョン・レノン

2009年10月2日金曜日

ディア・プルーデンス

ビートルズが、ジョン・レノンがこの世に、
同じ時代にいてくれて本当に良かった。
しょっ中ではないが、時々そう思う。
ビートルズには借りがあるなと。

天気の良い、爽やかな日。
そんな日には頭の中をディア・プルーデンスが鳴り響く。
「良い日だよ、プルーデンス。出ておいでよ・・・。」
ジョンが唄う。

高校時代、豆腐屋の清人くんと二人組のユニットを作り、
文化祭で演奏した。
 曲はビートルズのアコーステックなホワイトアルバム曲。
「ジュリア」や「アイウィル」など。

「泣け。赤子よ、泣くんだ。母さんにため息をつかせるんだ・・」
ジョンのつもりで唄う。
郷里片貝町の裏山で町を見渡しながら、
反対側に沈む夕陽を見ながら、
ビートルズを口ずさんだ。
ビートルズにも清人君にも敵わないから、
今でも音楽は趣味だ。
それでも高校時代に、絵を描きながら迷った時は、
ジョンの言葉を呪文のように唱えた。
「本来的な才能とは、自分に出来ることを信じることだ」

東京での浪人時代は、寅さんだった。
予備校の帰り、夕陽を見ながら口ずさんだ。
「奮闘努力の甲斐もなく、今日も涙のおー、
今日も涙の陽は落ちる、陽わあーーー落ちる・・・。」

 


 

いせや

 いせや公園店はいい。

「いせや」は東京吉祥寺にあるモツ焼き屋である。
本店は建て替えとなったが、 公園店は築50年の風情がある。しかも目の前は井の頭公園。
店内は増改築を繰り返したことが、一目でわかる。
二階まで吹き抜けの店中央に
天井の低いテーブル席、入り口にはカウンター席、
公園側に座敷。
夏は吹き抜けの中央テーブル席の窓際で、
色濃く茂った青葉を肴に生ビール、
春秋冬は座敷席で、やはり公園を横目で見ながら、
日本酒か焼酎を飲みたい。

数年前、亡くなったフォークシンガー高田渡氏を
何度か見かけた。
高田氏は酒で赤くなった目をギラギラさせて、
店の外の立ち飲みカウンターで焼酎を飲んでおられた。
いせやのモツ焼きは取り立てて美味という訳ではない。
けれど、酒飲みには堪えられない
昭和の居酒屋の雰囲気が充満している。

日本酒のぬる燗が嬉しい季節となった。

「白玉の歯にしみとおる秋の夜の酒は静かに飲むべかりけり」
 牧水
 

2009年9月30日水曜日

海の家

 秋の海が好きだ。
  
 夏の海の家のラーメンが好きだ。あまりダシが効いてなくて、
具も多くなく薄い醤油味のあのラーメンが好きだ。
あのラーメンが何故旨いのか。
それは海のロケーションと雰囲気に合っているからだろう。

 眺めるなら、秋の海がいい。晴れた穏やかな秋の日の海。
それはもう現実にはない海だと気がついた。
自分の記憶、妄想の中にある海。
 記憶の中にある海の家も、海の家のラーメンもたぶん存在しない。

 「私の耳は貝の殻。海の響きをなつかしむ」コクトー
 
 東京国立博物館の日本館の常設展で、思いかけず梁楷の国宝の絵画4点を見た。
 多分、10年以上、もしかしたら20年以上前に見た作品だ。
 同じ作品でも、当然時間で変化する。見ている自分ももっと変化している筈だ。

 印象はほとんど変わらない。変わったのは梁楷に対する理解かもしれない。
 前に目にした時は、梁楷という南宋を代表する画家の名さえ知らなかった。
 でも目の前の絵の深遠さに惹かれた。
 その時見た、夏桂(伝夏桂)の「山水図」もあった。
 じっと見つめていたら、自分が絵の中に入り込んでいくような、
そんな錯覚をおぼえた。
 夏桂の絵が欲しくなった。
 無理だけど。

 「真実は醜い。真実に滅ぼされないためにわれわれは芸術を持つ」ニーチェ
 
 秋の、新潟の海が見たくなった。
 

2009年9月29日火曜日

タモリ倶楽部

タモリ倶楽部が好きだ。

それほど熱心に見ているわけではない。
金曜日に起きていれば見る程度だ。
あまり盛り上げないのがミソなのだろう。
鉄道マニアものなど、マニアではない人も楽しめる。

ベストセラーでロングセラーのものはマレである。
表現の世界でも、ビートルズの音楽や
太宰の小説などあるにはあるが、多くはない。
子規は月並みを嫌った。流行りを追うと月並みなると戒めた。

ピカソは夥しくスタイルを変えた。
ひとつの様式がピークを迎える前に新しい様式を模索した。
いくつもの頂点を作り出しながら、芸術を展開した。
マチスは晩年のインタビューでこう答えている。
「私はこれまでにずっと同じものを探求してきました」
学生の頃からマチスに傾倒していた私だが、
自分はピカソタイプなんだと最近は思うようになった。

タモリ倶楽部の居酒屋巡りが好きだ。
井筒監督やなぎらけんいちなど、
だらだらと飲みながらだらだたと話しているのを見るのが好きだ。

酒飲みは、酒飲みを見ると安心するのだ。
本当は安心など出来ないのに。
まだオレは大丈夫だと、そう思って飲んでいるのだ。
今日は酒を抜いた。
 

「酔うてこほろぎと寝ていたよ」   山頭火

2009年9月27日日曜日

日常

 子規のこと。
 歌も、散文も一見簡素で凡庸なようだが、そうではない。
 病床にあって、見ること聞くこと読むこと考えることを徹底した強さがあると感じる。
 生きるとはそれぞれの日常を生きることだ。若くても年を取っても、どんな状況でも
 今しかない。子規を読んでるとそう感じる。

 英国で活躍する、現代の画家ルシアン・フロイトの画集を買った。
 氏は重厚な油絵で、ヌードを中心とした人物画で著名な画家である。
 もの凄くリアルなのに、日常に潜むもう一つの現実を示している感じがする。

 美術は具象的であれ抽象的であれ、美術でしか表せない世界を生み出しているのだ。
 絵画は精神の窓だと思う。それがどの様な窓であれそれぞれがそれぞれの窓を持つことが
 大切に思う。

2009年9月26日土曜日

なじら

 秋が好きだ。
 夏の暑さが苦手だったからだろう。子どもの頃、暑い夏の楽しみと言えばプール、冷えたスイカ
 そして海だった。実家に車はなく電車を乗り継いで行く海は、夏最大のイヴェントだった。
 プールや海での体験が、絵本「キャットくんとふしぎなプール」の原型となった。

 郷里、小千谷市片貝町ではお盆を過ぎると重陽の節句に行われる秋季大祭の準備に入り、
 集会所からお囃子の曲が聞こえてくる。薄が白い穂を風に揺らし、田んぼには一面黄金色が広がる。
 町の人はみな夏の終わりを嘆くより、実りの秋をお祭とともに祝うのだ。

 往く我ととどまる汝に秋ふたつ    子規

 新しいホームページが出来たので、知人にメールで知らせている。
 敬愛している先輩に子規の「病床六尺」を読んでいる、子規はいいですねとメールしたら、
 「 子規は生きていくことに自信を持った人だった。」と返事があり、得心がいった。
 
 「なじら」とは新潟中越地方の方言で「どうですか(調子は)」の意味である。
 高校時代の友人で俳優の大高洋夫が新潟日報ので「ナジラネ」というタイトルの日曜エッセーを
 連載している。ナジラネはなじらと同意である。そこにボクが挿絵を描いている。
 よかったら見て下さい。

 それにしても、秋(あき)はいい。
 

 

2009年9月23日水曜日

日々のこと

 今日初めて自分でブログを更新した。ブログ制作者の藤塚さんの力をお借りしてだが。
 
 先日9月9日、10日に行われた郷里新潟県片貝町の秋季大祭に数年ぶりに出た。
 酒を飲みながら、同級生と山車を引いて町を練り歩く。山車を引きながら見る町景色。
 たくさんの夜店、夥しい見物客、山側に見える花火。
 花火は山車を引きながら見るのが一番楽しく美しく感じる。

 子どもの頃お祭りの朝のことを強く思い出す。
 まだ舗装されていない道の所々に、門柱が建てられていた。町全体が神聖な結界となっていた。
 現在2万人を超える観光客が集まるようになった。
 ビートルズの「インマイライフ」じゃないけれど、変わってしまったものも残っているものもある。

 今朝永井均の「マンガは哲学する」を読み終えた。
 「天才バカボン」「デビルマン」「ドラえもん」を取り上げながら、永劫回帰や自分とは何か
 世界や死とは何かを問うていて、刺激的だった。問いを学ぶ。学問。

 昨晩見た白州次郎のドラマ。面白かった。戦時中のことを考えると常識を疑うことは大切なのだ
 と思う。常識そのものが必要だとしても。永井均のテーマもそこにある。

いよいよ秋本番ですね

ホームページも完成しましたし、芸術の秋です!よしいさんの新作を大いに期待しています。

フジツカ

2009年8月26日水曜日

いよいよ正式なホームページのオープンです

8月中に正式なオープンを目標としてきましたので、なんとか間に合ってよかったです。
よしいさんに、これから少しずつ新しい息吹を吹き込んでいっていただけたらうれしいです。

藤塚事務所
藤塚伸雄

2009年8月19日水曜日

新しいホームページの開設に向けて

2つ目のホームページ「よしいひろし -プロントくんとなかまたち-」を立ち上げ。
郷里、新潟県小千谷市立片貝中学校の同窓生、藤塚伸雄氏に制作を一任。素晴らしい出来映えに感謝。
これからは制作とともに配信も心がけようと思う。

近日中に仮サイトをリニューアルできそうです

現在、ブログのレイアウトを調整しながらダミー記事を投稿しています。

正式な投稿は今月末に予定しています公開をお待ちください。


Fujitsuka Office

現在制作中!

ホームページは、内容を追加したり、レイアウトを作り直していただきただいま制作中です。
画像の調整をしていただいたり、同じようでいて新鮮な印象になると思います。

もう少しお待ちください。

Fujitsuka Office