抽象美術がある。
ストライプだけの絵画や、四角い箱の彫刻。
感情移入がしづらく、一般的に何が描いてあるの?と揶揄されたりするアレだ。
画家ゴーギャンは「芸術とは一つの抽象である」と言っていた。
具象的な作品でも、「花」とか「人物」のようにイメージが特定できるだけで、
イメージは様式化され抽象化された線や形、色に還元されているからである。
それでも再現的表現(具象)と非再現的表現(抽象)に分けることは出来る。
ホームページを見て頂くとわかるが、僕も大学在学時から10年以上抽象画に
取り組んできた。抽象美術は普遍性を目指す。ピラミッドが良い例だ。
具象美術は個別性や現象を現す。
敬愛する写真家、荒木経惟氏は「写真はセンチメンタルでいいんだよ」と言う。
「センチメンタル」。抽象では難しいかもしれない。ポロックの成熟した絵画に
おいては叙情性や感傷性(センチメンタル)が表されていたけれど。
20年来の友人でビデオアート作家の浦崎勲さんから、作品集が届いた。
1980年代に制作させたものを再編集したとのこと。
ビデオアートは当時の最新技術だったビデオカメラ、デッキを使った映像作品である。
浦崎さんの作品を見ていて、抽象と具象のことを改めて考えたのだ。
カメラが映し出す映像は具体的である。それは1980年代の空気をストレートに伝えている。
しかし、主題となっているのは普遍的な問いかけだと感じた。
そして画面構成の造形スタイルは、ミニマルアートかと思えるほどシンプルで禁欲的だ。
浦崎さんが、新しい作品に取りかかるとの言葉を嬉しく思った。
子規は「写生」の重要性を説いた。「写生」より「観念」が重要とする文壇に異を唱えた。
それでも、くどくどと描写するのでなく「簡素さ」「簡略のよさ」も認めていた。
抽象と具象、客観と主観はともに必要なのだ。
アラーキーは「センチメンタル」も「エロス」も表現する。「美」と「醜」の境界も希薄に感じる。
大切なのは、自分にとっての「エロス」と「タナトス」を感じさせるものだろう、と思う。
「どうしようもないわたしが歩いている」山頭火
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