2010年9月27日月曜日

ひとりの時間

 ぼくが
 絵を描く時
 まわりに誰かがいても
 それはひとりの時間

 電車の中で
 言葉をしぼり出す
 満員電車でも
 それはひとりの時間

 のみ屋のカウンターで
 ひとりハイサワーを飲む
 おっさんが話しかけても
 それはひとりの時間

 ひとりといる時も
 ぼくは何かと繋がっている
 それでもやっぱり
 ひとりの時間

 (2000.10.9制作)

2010年9月26日日曜日

雨に負けて

 雨に負けて飲み屋に入った。

 風が吹いたので飲み屋に入った。
 陽射しに負けて飲み屋に入った。
 台風が来たので飲み屋に入った。

 一日に五杯のお酒をグビグビと飲み、
 少しのモツ焼きと厚揚げと
 ガツ醤油を食べる。

 向かいで誰かが居ない人の悪口を言えば、
 面白そうなので相槌を打ち、
 横に出来上がった親父が居れば、
 「もう帰んなよ」と諭す。

 帰り道に酔ったままで電話をしては
 言ったことを忘れてしまい、
 電車に乗り過ごしては
 起こしてくれなかった他人を恨む。

 今日も一日ウソをついた。
 ウソばかりついて
 何がウソなのか解らなくなった。

 人の話は参考程度に聞き流し、
 書を読んでは前のページが想い出せない。
 昨日何を食べたのかも想い出せない。
 
 熱い夏にはビールをあおり、
 寒い冬には燗酒をゴクリ。

 みんなに変人・変態と呼ばれ
 いつもニタニタ笑っている。
 
 そんなバカな自分が好きだ。

 *注 この詩(文)はフィクションであり、
  特定の個人・団体とは関係在りません。

2010年9月24日金曜日

センチメンタルな秋

 「寒さ、暑さも彼岸まで」とはよく言ったものだ。
 今日秋分の日(お彼岸)は見事に涼しくなった。
 朝5時過ぎに起きると、
 日の出が随分遅くなったことが実感できる。

 あまりの土砂降りの大雨で、
 鷹の台の松明堂ギャラリーに出掛けることを断念した。

 お陰で午前中にプロントの水彩画を、
 夕方から夜にかけてパネルに和紙を貼ったボードに
 墨絵を描いた。
 6時間以上描いたのは今年になって初めてかもしれない。

 I氏よりメール在り。
 本日午後6時よりNHK総合で「アラーキー」こと
 写真家の荒木経惟氏の特集があるとのお知らせ。

 アラーキーは大好きな写真家だ。
 写真家と言う範疇に収まらない芸術家だと思う。
 でも見事に写真家である。

 30代の半ばに10年以上続けていた抽象画から
 具象的なイメージの絵へ一大転換した。
 その前後からアラーキーの写真を良く見るようになった。
 随筆なども買って読んだ。

 「センチメンタルでいいんだよ」。アラーキーはそう宣う。
 そうか、と励まされた思いがした。

 僕は自分の頭の中で創り上げた「近代主義」と闘っていた。
 「モダニズム」常に最新のものを要求する。
 その要求に応えたいと考えていた。
 
 「センチメンタルでいいんだよ」。
 自分にとってのリアリティ。センチメンタルな世界。
 それは自分が経験してきた世界の中にある。

 僕にとって最初の絵画とは
 8マンや鉄腕アトム、鉄人28号だった。
 自分が影響されてきた文化とその背景を探ること、
 それは自分にとっての「近代主義」を探ることでもあるのだろう。

 秋は一気に深まる気配だ。
 僕の大好きなセンチメンタルな秋がやって来る。 

2010年9月20日月曜日

沈黙のリズム

 新宿の末広亭。
 数年前に母と行った。
 生まれて初めて歌舞伎座で
 歌舞伎を見た次の日のことだった。

 出演予定でなかった桂歌丸が出た。
 それだけでも少し驚いたのに開口一番
 「昨日歌舞伎座で歌舞伎を見てきた」と宣うので
 さらに驚いた。

 歌丸師匠は続けて言った。
 若い時から歌舞伎を見ている、
 自分の師匠から見るように言われたと。
 お芝居の筋や演技でなく、
 お囃子や口上のリズムが大切なんだと言っていた。

 趣味でバンドセッションに参加している。
 ビートルズ研究会だ。
 そこの仲間と今年ライブをやったことはブログでも書いた。
 
 バンドで重要なのはリズムがカチッと合うこと。
 ドラムとベースのリズム律がバンドの要だが
 ギターやボーカルも合わないいけないのは当然のことだ。
 
 絵画や造形表現でもリズムが大切だ。
 ただ上手な絵と凄い絵は線や筆触のリズムが違う。
 書でも同じだと思う。

 音楽や演芸、絵画や書で
 何となくは上手いけれど面白くない表現がある。
 これはただリズムを合わせるのと
 拍を意識してリズムを刻むとの違いだと思う。
 リズムは刻まれなければならないのだ。

 それが質感を生む。リズムと質感。
 そして表現に手触りが生まれる。
 綺麗なだけの表現には手応えがないのは質感がないからだ。

 2回目の個展のタイトルを「沈黙のリズム」とした。
 150号の抽象画の題名を考えている時思いついた。
 その時は何となくなくだったが、
 今になって思うと絵画や書、文学など
 音を奏でぬ表現で優れたものには遍く沈黙のリズム」が流れている。

2010年9月19日日曜日

よくばりな犬

 洗濯物を干そうとした。
 Tシャツを二枚を手にしていたが
 後一枚なので無理して三枚を両手に持った。

 紫色のTシャツを洗濯紐に掛けたと思った。
 次のシャツを掛けようと思った瞬間
 シャツはコンクリートのベランダに落ちた。
 運悪く昨夜の局地的な豪雨による水溜まりがあった。
 シャツは濡れて汚れてしまった。

 イソップ童話の「よくばりな犬」を思い出した。
 水面に映る自分の口にくわえた肉を 
 違う犬の肉と勘違いして取ろうとして
 自分の肉を川に流してしまうあの話である。

 2枚のシャツなら落とさなかっただろう。
 残りが3枚だったので、つい欲張った。
 「よくばりな犬」と同じだ。

 自分の愚かさに気付いても、
 そのことで自分を責めたりしない。
 責めることと反省することは自己完結している。
 そういう場合が多い。
 反省すればする程、同じことを繰り返す訳だ。

 反省をせずにただ見つめること。
 それを心掛けている。
 
 油断していると直ぐに「オレはダメな奴だ」とか
 「もうイヤだ」とか「年を取ったな」とか思ってしまう。
 マインドは強力だから、引きずられるのは簡単だ。

 マインドとは付き合わないと生活できないけれど、
 マインドの奴隷にならないこと。
 マインドもまたヘメレケソなのだから。
 
 僕は欲望を肯定する。
 けれど欲望の奴隷にはなりたくないのだ。

2010年9月16日木曜日

生と死

 トイレの中で考える

 今日も一日

 生きながらえて

 今日も一歩

 死に近づく

 あたりまえのことだけど

 あたりまえとは

 思わなかった

 今生きているということ
 
 そして

 死につつあるということ

 (2000/9/2制作)

2010年9月14日火曜日

少年老いやすく、学成り難し

 「キムちゃんは小中で廃品回収やってた?」。
 「オレは大学でもやってたよ」。
 「それはアルバイトでしょう」。

 キムちゃんこと木村さんは百薬の常連。
 青森出身の木村さんと新潟出身の僕は
 年が近いこともあり、仲良くさせてもらってる。

 「やったよね。町内会毎にリヤカー牽いてさ。
 中学になると、悪い先輩が瓶だけ金になるから
 瓶を酒屋に売ったり、エロ本持って帰ったりさ」。
 「オレの中学なんてさ、
 夏休みの宿題が乾燥どくだみ1kgだよ」。
 「どうするの?それ」。
 「どくだみの葉は漢方薬になるから売るんだよ。
 それが生徒会予算の収入源になったんだ」。
 「よしいさん、若いのにやってることは古いねーー」。
 いつも若いとうそぶく僕を知って木村さんはワザと言う。

 「オレ、スズメバチに刺されたことあるよ」と木村さん。
 「親に言ったら自力で治せと言われたよ。
 そしたら暫くしてまたスズメバチに刺されたんだ」。
 「えーーーっ。2回目はマズイよ。下手したら死ぬんだよ」。
 「うん。さすがに高熱が出て医者に行ったよ」。
 「オレは小4の時、クマンバチが頭を刺してさ」。
 「頭はやばいよ」。
 「オレも熱出して、全身にじんま疹が出たんだよ・・・。
 あれでオレの神童時代は終わったんだ」と最後だけホラを吹いた。

 「オレ中三の時に学校の応援団長になってさ」。
 「よしいさん。オレは高校の時応援団長やってたよ」。
 「えっ、あの名門○○○高校の応援団!キムちゃん凄いなー」。

 話は尽きず二人は百薬を出て「スナック京子」に向かった。
 
 *続かない 

2010年9月13日月曜日

スープカレー

 たまにカレーを作る。
 大抵はポトフやトマトスープを作った次の日、
 材料を足してカレールーを入れて作る。

 これだとずっとカレーと言うことにならなくて
 ほとんど同じ材料で違う味が楽しめる。
 
 カレーを作って厭なこと。
 後片づけだ。
 べっとりカレールーが鍋に付いている。
 スプーンでルーを削り落としてから
 しばらく水に漬けて洗う。
 めんどくさい。

 ある日スープカレーを作ってみた。
 以前COCO壱番屋で一度食べたことがあったが、
 自分で作ったことはなかった。
 
 テレビ番組で札幌のスープカレー屋さんを特集しており
 それを見てたら無償に食べたくなった。

 僕の作り方は自己流なので
 本当のスープカレーとは言えないものだと思う。

 鶏肉モモとニンニク、玉葱を炒める。
 カレー粉と黒胡椒、砂糖、ウコン、塩とポン酢を少々。
 火が通ったら、日本酒、水を入れ固形スープを入れる。
 さらに玉葱、トマト、生姜を投入。チキンスープ顆粒も入れる。
 煮立ってから人参ジャガ芋を少し入れる。
 白ワイン、ウスターソースを入れ味を整える。
 全体に火が通ったら、カレールーを少しだけ入れる。
 完成したら別に茄子、パプリカ、オクラを炒める。
 白いご飯を丸い島のように固め、
 周りに焼き野菜を載せ、スープカレーを注ぐ。
 
 美味しい。
 あっさりしているから飽きが来ない。
 何よりもスープカレーが優れているのは
 後片付けがとても楽チンだということ。
 
 今日はスープカレーだ。

2010年9月10日金曜日

仏教が好き

 以前買った雑誌PENの特集「キリスト教とは何か」。
 聖書について、教会について、宗派の違いについて
 キリスト教文化について分かり易く書いてある。

 僕は美術の世界からキリスト教に関心を持った。
 たぶん、同じ時期にニーチェとマルクスを読み
 それらの背後にキリスト教があることを漠然と知った。

 ニーチェやユング、ボルヘスやカフカを読んだり
 フェルメールやセザンヌ、ニューマンなどの絵画を見ても
 キリスト教とその文化の影響を考えない訳にはいかない。
 彼らの文化にはキリスト教の思想が深く入り込んでいるし、
 近代を受け入れた我々の文化にもそれらは入り込んでいる。 

 今、読みかけの本「仏教が好き」。
 中沢新一と河合隼雄の対談集だ。
 これは仏教についての本であると同時に
 比較宗教の本でもある。

 河合隼雄の本はI氏を通じて随分読んだ。
 ユングを読んだ後で、対談集が主だった。
 中沢新一はニューアカブームの頃
 「チベットのモーツアルト」を途中で断念した後
 ずっと縁がなかった。

 南方熊楠への関心から「森のバロック」を読み
 これは凄い人なんだなと思い、
 「僕の叔父さん網野善彦」を読んで親近感を持った。

 デカルト的に空間や量を均質に見つめ、
 何処までも個別的に分析をする西洋近代主義の行き詰まりと
 仏教の持つ「合理性」や「相対性」を
 比較検討しているところが面白い。
 勿論、キリスト教やイスラム教の長所を認めながらである。

 僕には前世という概念が解らない。
 僕は生命が誕生してから35億年、
 受け継がれてきた生命のリレイヤーだと思っているからだ。
 姓名判断も理解できない。
 星占いは良く見るが根拠は理解できない。
 易を共時性の現れとするユングの考えは少し解る。 
 意味のある偶然の一致として見る考えである。

 占いのほとんどは個人の欲望に基づいているのではないか。
 僕は欲望を否定する者ではない、むしろ肯定派だ。
 だけどオカルト的なものが持つ馬鹿みたいな合理主義
 ご都合主義が嫌いだ。

 僕は神秘主義を否定する者ではない。
 本当の神秘主義はオカルト的なものと対極にある
 そう思っているからだ。

 まあ神秘主義もカルマもヘメレケソなのだろう。
 仏教の優れたところは
 全てを心の現れでしかないと言いながら、
 その心も自分という存在も妄想だと言うところだろう。
 ヘメレケソ。

 「世界の中に神秘はない。
 世界が在ることが神秘だ」。
 ヴィトゲンシュタイン

2010年9月9日木曜日

サラダホープ

 郷里の片貝では四尺玉が打ち上げられ、
 最後の花火が終わって人々が家路に着く頃だろう。
 祭の後の何とも言えない静寂も好きだ。

 東京は台風によるの豪雨の後で、一度に秋めいてきた。
 花小金井周辺の自転車道路の秋桜は
 盛りを過ぎたように見えた。
 早咲きの秋桜だったのかもしれない。

 うだるような暑さの8月終わりに
 職場の中庭の空から見た「ひつじ雲」。
 テニスコートの木陰で感じた秋の風。
 
 気がつけば日の出は遅くなり、
 秋の夕暮れは釣瓶落とし。
 蝉の声はか細くなり、
 虫の音はいよいよ賑やかになっている。

 先日は百薬の長で久しぶりに煮込みを頼んだ。
 美味しかった。
 マスターは猛暑で売れ行きの悪かった煮込みが
 今日はよく売れたと話していた。

 郷里ではお祭の日の今日、
 多くの家であおきやのホルモンを食べていることだろう。
 そしてもっと多くの家で、
 すっかり新潟名産となった亀田製菓の「サラダホープ」、
 これを食べながら、ビールやお酒を飲んでいることだろう。

 あーあ、ちょっと羨ましいな・・・。

2010年9月5日日曜日

国連ジョーク

 20代の頃同じ職場に居たI氏から、
 「国連ジョーク」なるものを聞いた。
 
 国連職員の間でかつて流行っていた
 各国の国民性を表したジョークだという。
 その内容はこうだったと記憶する。

 豪華客船が座礁した。沈没は時間の問題である。
 ところが客船の救命ボードは
 子ども、女性、お年寄り分しか用意されていない。

 船員は国別の客室に行き、
 男性は海へ飛び込むように説得しなければならない。

 アメリカの男性には「皆さんには多額の保険が掛けられている」
 と説得する。
 ドイツの男性には「国際法上こう定められている」と説得する。
 イギリスの男性には「紳士は飛び込みます」と説得する。
 フランスの男性には「愛する人のために飛び込んで」と説得する。
 イタリアの男性には「モテる男は飛び込んで」と説得する。

 そして日本の男性には
 「皆さん飛び込むようですよ」と説得する。

 今朝の報道番組で石川県のある市の職員が
 「限界集落」を再生に取り組んでいる様子が紹介されていた。
 お米を特産物としての売り出すことにに成功し、
 農産物の直売場を作り、そこが大盛況となる。

 官民の垣根を超えた新しい試みは当然強い抵抗があった。
 「前例がないから」と。

 彼の成功は職場の上司、地域の人、近隣の若者、省庁など
 異なる集団を動かして結びつけたことにあると思った。
 何よりも「常識・定説」を打ち破ろうとする
 彼の意志・情熱・行動に裏打ちされたものだが。
 彼はこう言う。「これが前例になる。全国に繋がる」と。

 これを特集したテレビ局も見直した。
 日本人は「右にならえ」だけではないのだ。
 
 「もりもり盛り上がる雲へ歩む」山頭火

2010年9月2日木曜日

LET IT BE (晩夏Ⅴ)

 「よしい!録音するんだ、歌えや!」。
 今井豆腐店を経営する清人が言う。
 「ここで Let it be やるがかや・・」。
 
 8月16日の夜9時半。長岡の街の裏通り。
 オレは高校の同級生小酒井、清人、ムロコと
 居酒屋「みち草」で飲んで良い気分だった。

 二軒目へ向かう路上で、清人が持っていた携帯
 i-phoneを取り出して自慢しだした。
 「これてば、すげーがれ!」。興奮している。
 「携帯らてがんに、4ch の録音編集が出来るがて」。
 イヤホンで聞くギター二本とボーカルが二声で
 「Let it be」が聞こえてきた。

 高三の文化祭で清人と二人だけのユニット
 「ミー&ケイ」でビートルズを演った時を思い出した。
 「よしいっ!また二人でライブやろうて!」
 「何処でか?」「長岡駅前でいいねかや!」
 この年で路上ライブか。
 片貝で知られたら、さぞや評判になるだろうな・・。

 「ギター、いい音らな・・。」
 「高校の時初めて買った1万2千円のギターらて」。
  清人が言う。
 「まあ、ネックと弦がフラットになるように
 改造したがらどもな」。

 「ブラックバードよ飛べ。ブラックバードよ飛べ
 暗く黒い夜の光の中へ」。

 'Let it be'を歌い直すつもりが
 曲は'Black Bird'に変わっていた。
 録音した音源をイヤホンで聴いた清人が言った。
 「やっぱ、オメは音痴らな・・」。
 
 *「晩夏シリーズ」終