2011年8月27日土曜日

アニマリス・リノセリス

風を受けて、透明で筒型の羽が高速で回転する。
ギアの回転が駆動部に伝わる。
前後12本の足が交互に上がり下がりする。
ゆっくりと。
そして、前進をはじめた。

名前は「アニマリス・リノセリス」。動物のサイを意味するらしい。
「大人の科学」の付録で組立式のプラスチック教材 だ。
教材。まさにオモチャじゃなくて教材なのだ。
まあ感覚的には限りなくプラモデル作りに近いけれど。

随分とむかし。
月に一度、小学校の体育館にその販売業者はやってきた。
「学研の科学と学習」だ。
勉強の嫌いな僕は「科学」しか買わなかった。
普段、雑誌や漫画本を買ってくれなかった両親が
「学研の科学」だけはお小遣いをくれた。

娯楽の少ない当時の田舎である。
「学研の科学」は東京の文化がそのまま来た
くらいのインパクトがあった。

毎号楽しみにして様々な付録教材を組み立てたのだが、
記憶に残っているのは「羽ばたき機」と「カメラ」だけだ。

「羽ばたき機」はゴム動力で羽ばたいて見事に飛んだ。
この感動は忘れられない。
「カメラ」はピポイントカメラなのだが、
何度試しても何も写らなかった。
あまりにガッカリしたのを記憶している。

オランダのアーティスト、テオ・ヤンセン。
彼の風で動く巨大な彫刻‘ビースト’を
初めてテレビで見たのは10年以上前だったろうか。
日テレの「世界まるみえテレビ」だったと思う。
複雑に組み立てられた夥しい数の樹脂性パイプ。
それが風を受けて動き出す様は圧巻だった。

それに目を付けて「大人の科学」で教材化した学研は偉い。
「大人の科学」自体が昔の「学研の科学」世代を標的にしている。
僕が夢中になった「羽ばたき機」も復刻していた。
テオ・ヤンセンの「ミニ・ビースト」もある。買おうっと。

忙しい上に気管支炎で体調が思わしくない8月だった。
「アニマリス・リノセリス」のお陰で
夏休みの工作を完成した達成感があった。

2011年8月25日木曜日

激しい雨が降る

扇風機の回る音
雨樋を通って水の落ちる音
はぜるような雨音

午前9時半の暗い室内
1000円ショップの間接照明
ペットボトルのお茶「伊右衛門」

花まるマーケットの料理紹介
人参のポタージュスープ
胡瓜と生姜の春巻
圧力鍋で作る豚肉のスペアリブ

今日は豚汁と豚丼にオクラ・大葉・胡瓜ミックスを載せようか
朝御飯は温めなおしたホットケーキ
牛乳を混ぜて作る冷たいポタージュスープ

大人の科学・別冊
テオ・ヤンセンの「ミニ・リノセロス」
組み立てると風で動く彫刻

今年の夏は終わろうとしている
個展の計画を進めなかった
まとまった制作はほとんどしなかった

昨日の夕暮れ
不思議な雲がさっと現れて
さっと消えていった

夕食は美味香の中華料理
「美味しい」と北京語で言ったら
台湾出身の奥さんは
「とても驚いた」と日本語で言った

帰り道からポツリポツリと雨
雨はやがて強い線を描き
それは束になった

そして今も激しい雨が降る

2011年8月21日日曜日

丙申堂(旧風間邸)

もう随分昔のことになる。
青梅市の小さな図書館に「日本の民家」全集があった。

大判の美術全集の趣。
現存する江戸期からの民家が
北は北海道から南は沖縄まで収集されていた。
全何巻だったのかは憶えていないが、
写真や図版を模写した。それらは今でも取ってある。

建築史家の藤森照信の本を読むまで、
近代建築の原点が日本建築にあるとは考えていなかった。
けれど大好きなモンドリアンの絵と
憧れの桂離宮の造形美には何らかの共通点があるなと感じてた。

日本の民家の障子の格子にも共通点を感じていた。
様々な民家にはそれぞれ独自の格子の様式があった。
それを酒田市の鐙屋や旧本間邸で実物を見ることができた。

二泊三日の最終日。
鶴岡に戻って丙申堂・旧風間邸を訪ねることにした。
風間は母親の旧姓である。何か繋がりがあるやも知れない。

本間邸ほど期待していなかったのだが、
邸内に入るなり保存状態の良さと格式に驚いた。
雰囲気というか、佇まいが何とも言えずに良いのだ。

聞けば、海運業や銀行を興した風間氏は越後の出身。
母親と同じ一族の可能性もあると、案内の人から聞いた。

廊下のように長く続く土間が石畳。
土壁も漆喰も梁も基本的に建築当時のままだというが
何処にも傷んだところが見当たらない。
よほど大切に保管維持され、修復されていることが分かる。

奥に進むと20畳はあろうかという板の間。
二階までの吹き抜けの梁には三角形のトランス構造になっている。
台所から繋がる後2階は住み込みの大工さんの部屋だという。

玄関へ戻って、前二階へ上がる。
石葺きの屋根と中庭が見える。何とも美しい。

戦災を免れた鶴岡や酒田には多くの文化財が残っていた。
加えて、豊かな自然と修験道など日本独自の宗教文化。
山形の旅は実りの多い旅だった。
(終)

2011年8月19日金曜日

パンドラの函

太平洋戦争終戦(敗戦)に関する特番があった。
二つの番組に惹かれた。

一つはある米国人将校の話。
彼は軍人でありながら、広島・長崎の惨状を知り、
核兵器廃絶を訴え、そのための活動を続けた。
在軍中に彼の意見を取り入れる者は居なかった。
その後、日本の平和式典にも参加し、
亡くなるまで様々な活動を続けた。

もう一つは日本陸軍の小隊の話。
スパイとおぼしき中国人の少年を
処刑するか、解放するか論議になった。
彼らはその少年を保護しかくまうことにした。

少年と小隊の隊員の間には不思議な友情が芽生え、
爆弾で片眼を失った少年に、隊員達は義眼を買って与えた。
敗戦で強制送還されることになった小隊に、
少年は別れを告げに会いに来たという。

いずれも自分の不利益や危険を承知で、
人間としての志操の高さ、尊厳を大切にした例だろう。

けれども同時に人は弱いものでもある。
自らの欲望に弱い。地位や名誉に弱い。権力に弱い。
弱いからより弱い人を見つけ出し、時にいじめる。
自らの弱さを認めたくなくて、大きな組織や権力と同化し、
同化しない他の組織や権力を憎み、排除し、攻撃しようとする。

米国人の多くは広島・長崎の惨状を知らない。
日本人も多くが中国、朝鮮半島、その他の惨状を学ばない。
自国の悲劇に目を向けても、自らの汚点には目をつむる。

情報化社会と言われて長い年月が経つ。
確かに様々な情報が入手し易くなった側面はある。
しかし多くのマスコミが自社の利益(マスコミ収入)のため、
権力におもねず、情報の共有と透明性を守ることをしなくなっている。
戦前の日本社会の反省は生かされようとはしない。

人は歴史から学ぼうとせず、
私は私の弱さから目を背け続けている。
それでも非常時に尊厳を持った人たちに学びたいし、
パンドラの函の底には希望もあるのだと思いたい。

2011年8月7日日曜日

狐とカーナビゲーター

山形の旅の主な目的は3つ。
羽黒山の五重塔。高橋兼吉の洋館建築。
そして旧本間邸を始めとする豪商の館。

一日目に羽黒山五重塔と三神合祭神社を見た。
二日目は洋館建築を見て旧本間邸などを見るつもりだった。

洋館は取り壊しを免れて、致道博物館に移築されていた。
思ったよりも保存状態が良くなくて、
建物内部が往時のままではないのが残念だった。
それでも高橋の「旧鶴岡警察署」と「旧西田川郡役所」や
築100年以上の合掌造りの農家を堪能した。

昼食後に、庭好きの母が喜ぶだろうと思いつきで行った玉川寺。
(「ぎょくせんじ」と読む)閑かな山里にあり、予想を超える素晴らしい庭。
木々も池も石も全てが良かった。参拝者は母と僕の二人だけだった。
それでもお寺を囲む回り廊下には朱色の毛氈が敷かれていた。

鮮やかな庭の緑と毛氈の朱色。
それらの対比を楽しみながら、お菓子付きの抹茶を堪能した。
抹茶の温度も程よくて、お菓子の甘みと茶の苦みが心地よかった。
山形の奥深さが味わえた思いがした。

酒田市の旧本間邸に向かう。
「この道はさっき通った道らて」母が言う。
「そうらな・・・」
しかしカーナビの通りに車は動いている。
狐に化かされたのだろうか。
ナビは同じ道をぐるぐると回れと指示している。
三回同じ処を回って、ナビの指示を無視した。
漸く、酒田へ向かう。30分はロスした。

その後も狐との闘いは続いた。
僕のカーナビ入力ミスが輪をかけた。
鐙屋を旧本間邸と間違えて入った。
やっと旧本間邸に着いたのは閉館の30分前だった。
(あと一回つづく)

2011年8月3日水曜日

テロと文化多元主義

今日のニュース。
ノルウェーで銃乱射事件を起こした容疑者が
弁護士に日本人を要望したという。
理由は日本が文化多元主義では無いからだと聞いた。

ノルウェー人なのに、日本人の弁護人を頼むこと自体、
彼自身が文化多元主義者であることを示している。
第一に日本人はキリスト者は少ない。
しかも、多くのの日本人は文化多元主義者である。
キリスト者で無い可能性が高い他国の人を信頼するとは、
これほどの文化多元主義者は居ないと思う。

初詣へ出掛け、豆まきをする。
バレンタインデーにそわそわとして、
世界に唯一のホワイトデーを持つ。
若い人はハロウィーンも楽しむ。
彼岸や、お盆にお墓参りをして、各地方のお祭を持つ。
そしてクリスマスに、とどめが除夜の鐘。
花見や紅葉狩りも日本的なアニミズムと言えないか。

信仰はあるが宗教の無い国。
日本の何処が単一文化なのだろうか。

僕は日本には確かに独自の文化が存在すると思う。
それを素晴らしいと思うし誇りにも思っている。
しかしそれは同時にどの国と比べても
相当な多様性を有していると考えている。

隣の超大国、中国から影響。朝鮮半島からの影響。
南方文化、渤海、南蛮と呼んだ西洋。
それらを取捨選択しながら、
自らを創り上げた文化、文明。
それが日本という国ではないだろうか。

日本人の顔つきを良く見ればその民族の多様性も
容易に理解できる。
中国北方、中国南方、朝鮮半島、シベリア系、
モンゴル系、ポリネシア系、など回りを見渡しても、
テレビや雑誌で顔を見てもその違いが分かる。
頭蓋骨を分析すると、かなり正確にその人の
民族的ルーツを知ることが出来ると聞いた。

僕の瞳はカラコンと間違われるほど緑色に見える(らしい)。
でも僕の知る限り、西洋人に近親者は居ない。
遠い昔のご先祖様の一人が、ロシア人だったのではと推測している。
なに、みんな元を辿れば日本列島の外から来たわけだ。

単一主義というやっかいな妄想。
これも近代の持つ闇と無関係なのだろうか。
僕には良く解らない。

分かっているのは単一の考えしか認めない人の、
浅薄さと狭小さと傲慢さである。

2011年8月2日火曜日

羽黒山の五重塔

羽黒山の山門は佇まいが素晴らしい。
山門から杉林に囲まれた下りの階段が素晴らしい。
聞けば、ミシェランの観光ガイドで、
3ッ星を取っているのは、
羽黒山の杉並木の階段と松島の海岸だけだと言う。

まことに不思議な空間だった。
階段を下り切ると、
さほど広くない空間に幾つもの小さな祠。
様々な神々が祀られている。

川に架かった朱色の太鼓橋を渡る。
右手に岸壁があり、細い滝が流れ落ちている。
滝の前には二つの祠。
一つは滝そのものを(恐らく龍神を)祀っている。
祠に近づき、奥を覗くと、
ご本尊の滝そのものが祠越しに見える仕掛け。
ベリー、ジャパニーズ。凄くいい。

少し坂道を登ると、左手に千年杉のご神木。
今少し進むと、左手に石畳の参道があり
念願の五重塔が浮かんで見えた。
カナカナ蝉の鳴き声が、まことに見事なバックミュージック。

石畳の両脇にはやはり20mはあろうかという杉並木。
中心には堂々たる白木造りの五重塔。
全体が夏の木漏れ日にキラキラと輝いていた。
想像を超える威風堂々とした存在感。

本堂も金堂も持たない異質な様式。
白木で造られた(普通は漆などで彩色する)
唯一の五重塔だという。国宝に指定されている。

資料には明治期の「廃仏毀釈」の嵐から
この建物を守るため、仏塔でななく
神社の一部にしたのだという。
よくぞ守ってくれた。ありがとう、当時の人たち。

加えて庄内の山々は
古くからの修験道の聖地であったことも見逃せない。
「本地垂迹説」見事な神仏混合である。

五重塔を正面に右手にも道が延びている。
突き当たりから左手を見ると長い石の階段があった。
母は断念したが、僕は昇ってみたい。
母はゆっくり散歩して戻ると言う。あまり待たせられない。

階段を踏みしめる。
上から「ホーホケキョ」の鳴き声。カナカナ蝉の声に混じり合う。
やはり石階段の両脇を囲む杉並木が美しい。
しかし昇りは半ば急峻で息が上がる。

長い石段を10分は登っただろうか。
左手にお茶屋が現れた。休憩しよう。
羽黒山のミネラルウォーターを買う。とても美味しい。
お茶屋の前は崖になっており、
そこから庄内平野、そして日本海が一望できた。
(続けるのかな)