2011年4月11日月曜日

勘違いし易い話

 長年の付き合いの乾氏からのメール。
 乾さんとはずっと会っていないが、
 主にメールで時折は電話での付き合いが続いている。
 以下は4月10日に乾氏から届いたメールである。

 *

 これも、今まで遠慮していた話題なのですが、
 やっぱり今のうちに書いておこうと思いました。

 例えば、「煩悩即菩提」という言葉がある一方、
 一休の歌に「煩悩を即菩提ぞと誤りて罪を作りし人のいたまし」
 というのがあるように、同じことに見えて、
 まったく違う実相である、ということがらがあります。

 これに関して、とても良い話があるので、ちょっとそれを。
 ある覚者が、「必要な時は、悟りのことなど忘れてしまえ。
 歌い、泣き、友情に身を投じろ。そうすれば、悟りなどより
 もっと『いいもの』が手に入る」と言っています。

 これと同じことを言っている言葉やエピソードは、やたら沢山あります。
 どこかの妙好人の婆さんが、知り合いの女の子が死んで、
 わあわあ泣いていたら、「なんだ、普段は悟ったようなことを言っていて、
 あの子が死んだんでそんなに泣いているなんて、
 お前も大した事がないな」と言われて
 「うるさい、この涙がこの上ない功徳になるんじゃい」
 とさらに大声で泣いた。
 確か白隠も、師匠と別れるときに、
 二人で号泣したという話があったような。
 臨済も、師匠の死で大泣きしたというような話があります。

 先日のメールで、連ドラの別れの場面のことを書いたので、
 それを使って説明したいと思います。
 子供は、親友と別れることになった時、どうするでしょうか。
 ただひたすら泣くしかないのではないでしょうか。

 それは、その親友との間に彼が注いできた友情の
 「エネルギー」が純真で、大きなものだったことの証しではないでしょうか。
 だからこそ、彼は泣かずにいられないし、
 他の何かでやりすごすことはとても無理なのだ、ということでしょう。
 
 覚者も、そのような「方法」をとります。
 ただ、覚者はそれが心の現象であると同時に、
 完全にエネルギー現象(自然現象)であることを自覚しています。
 すると、「人間的な」人々からは、友情や愛情というような、
 心のことがらを「エネルギー」というような物理現象として
 「処理」しているのか、というように思われたりします。
 (そうには違い無いのですが。)友達のようなフリをしやがって、
 実は全然本気じゃねえんだ、と言われそうです。
 
 以前に書いた「空の下にいるという自覚」を、
 ここに応用して説明します。
 空の下にいるという自覚が完全に身についている人がいたとして、
 その人は外から見て、他の人と違うところは何もありません。
 やっていることも、特に違うことはありません。
 ただ、彼は自分のやっていることを、
 すべて、空の下でやっていること(というより、空の下で起こっていること)
 だと常に自覚している、というだけです。

 その男が他の人たちと一緒に阪神タイガースを
 応援して盛り上がっていたとして、
 最初に「仲間」と思われていたのと、
 やがてどこかで感づかれて「こいつは仲間ちゃうでー、
 ウドンで首吊って死んでまえ」と言われるようになったのと、
 どっちが正しいのでしょうか?

 とても分かりにくい、むづかしい問題です。

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