2012年8月7日火曜日

真珠の耳飾りの少女

「真珠の耳飾りの少女」を以前に西洋美術館で見たのは
確か25年以上前だったと思う。
並びながら遠目で眺める。
離れて見ても、輝くような肌色と青いターバン、
黄色い衣装、髪飾りが漆黒の背景と鋭い対比を描く。
要するに「絵力が強い」と感じる。

隣の西洋美術館で展示されていた
「真珠の首飾りの少女」。これも名品だった。
特に柔らかな女性の輪郭が冴えていた。

前にも書いたが、フェルメールの短い生涯で
晩年に当たる時期の作品は良くない。
(ついでに言うと初期の作品も優れていない)
タッチ(筆触)が硬く、表現は以前の模倣に陥っている。

良い時期の彼の光の表現は神業に思われる。
肉眼で見える筈も無い「光の粒子」を感じさせる。
絵の具という物質が光に変質している錯覚を覚える。
長い絵画の歴史の中でも特筆されるべき表現だ。

フェルメールの作品に会えると
自分の画家としての素養・画力が試される思いがする。
他の画家だと素直に感動したり、がっかりしたり出来るのだが
フェルメールは、それ以外に自分や他の作家の作品を
ある角度から判定する材料にもなっている感じがするのだ。

「洪水のあと/動物たちの肖像シリーズ」の小品「放蕩息子」は、
フェルメールの「牛乳を注ぐ女」を見た次の日に描き上げた。

優れた芸術表現はどこまでもオーソドックスでありながら、
基本を徹底することで、基本や常識を超えたある地点へ到達する。
それはスポーツ選手の優れた業とも共通する何かだ。

芸術はこの世界に現れた一つの奇跡なのだと思う。
けれどその奇跡はありふれた日常の中に潜んでいるのだ。

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