2011年7月28日木曜日

はかなさ

先週の土曜日、実家で新潟日報を読んだ。
小さな記事が目に止まった。
英国現代画家ルシアン・フロイト死去。
たぶん、89歳。
フロイト氏は高名な心理学者である
ジークムント・フロイト氏を祖父に持つ。

重厚で濃密なレアリズム絵画の巨匠で、
人物画を中心に室内画や風景を描いた。
現英国女王のエリザベス2世の公式な肖像画も描いている。

「砂丘の写真家」で知られる植田正治。
評論家の草森伸一氏が彼の写真の持つ
「はかなさ」についてを書いていた。

写真は瞬間を切り取ったものであり、
その意味ではどの写真家の写真も
はかないものだと言える。

しかし、アメリカイエローストーンの渓谷を写した
アダムスの写真は堅牢に感じられる。
「決定的瞬間」を撮ったとされる
フランスのアンリ・カルティエ・ブレッソンも、
感じられのは「はかなさ」などではない。

植田の写真は造形性が弱いわけでは決してない。
むしろプリントの焼きに拘った彼の作品は
明暗対比が明確で、シンプルな背景に対して
対象となる人物やモノは強くはっきりとしている。

けれど現実を写しながら、
幻想性を取り込んだそのイメージは
シャープな蜃気楼のようでもある。

植田と同じ履き物屋のせがれである
写真家のアラーキーは、もっと対象に近づき迫っている。
そこに彼が言う「センチメンタル」が生まれるのだろう。
対象を愛しながら、距離を取る植田との違いだ。

亡くなったフロイトの絵が好きだった。
彼は人間の肉体を美しく描かない。
ヌードをごてごてとした肉の塊のように描く。
肉体の質感と重み、それらの存在感を描く。
まるで祖父に反して人間には内面など無いかのように。

しかし描かれた彼らの視線は定まらず、
虚ろな、心の有り様が堅牢な鎧のような
肉体の後に見え隠れする。

抽象画家のモンドリアンやロスコと言いフロイトと言い、
僕には決して表現できない、することさえない
そういう作家たちに憧れる。

それでも自分が表したい世界は、
はかなく、移ろいやすい世界に違いない。

0 件のコメント:

コメントを投稿