高校生の時、それも入学して直ぐに、
自分が勉強に向いていないことに気づいてしまった。
まあ、中学の時も勉強はしなかったから、
気づくのが遅過ぎた訳だが。
前にもブログに書いたと思うが、
美術の道を選んだのは、
勉強には向かない、運動はクラスの荒木に敵わない、
音楽はクラスの清人に敵わない、
文学や批評ではクラスのムロコに敵わない、
女を口説かせたら小酒井に敵わない、(関係ないな)
謂わば消去法で選んだだけだった。
自分に本当に自信があったら、
ただのアホとして生きていけたかも知れない。
いや、どっちにせよただの阿呆には違いないのだが、
フォークデュオの「あのねのね」の影響で、
ちょっと知的なカモフラージュがしたかったのか、
勉強に替わる知的なものを求めていたのか、
哲学の本を読むことにした。
あのねのねの清水国明が本で書いていたのが、
ドイツの哲学者「ニーチェ」だった。
高校時代、安保闘争後の世代の我々は
「三無主義」とか「無気力世代」と言われてた。
「新人類」とか「ゆとり世代」と同じ、
自分より下の世代を揶揄するレッテルだ。
クラスに哲学書を読む生徒は、
他に居なかったと記憶している。
よく分からないのに
ショーペンハウエルの「自殺について」を買った。
「全ての悪心は、生きようとする意思が、
あたりかまわず激しく働くことから生じるものである」
とあり、ふーんと思った。
ショーペンハウエルは「受動的ニヒリズム」で
ニーチェは「能動的ニヒリズム」と知ったのは
その頃だったのか、大学時代だったのか。
大学のトイレの個室で、
ニーチェの言葉の落書きを見つけた。
「君の愛を伴い、君の想像を伴って、
君の孤独の状態へ赴け。
私を見よ。自らを超えて創造しようと欲し、
かくして滅びる者を、私は愛する」
その隣にはこの言葉をもじった、
所謂「下ネタ」の言葉が書いてあった。
その個室は「お気に入り」になり、
用は出来る限りそのトイレで足した。
「ニーチェをもっと読もう」そう思った。
(続くかも知れない)
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