2010年12月27日月曜日

一炊の夢

 自分の記憶が疑わしい。

 まるで映画「ブレードランナー」みたいだ。
 自分の過去の写真や、作品、文章など様々な痕跡。
 それらを見ると、そんな過去を持っていると思う。

 けれど、それらが「刷り込み」では無いと言う保証はない。
 ブレードランナーの「レプリカント(人造人間)」。
 彼らは数年の命にも関わらず、
 刷り込まれ捏造された過去を「在った」ものと信じている。
 彼らと私はどこがどう違うのか?

 たまに、いや割合記憶が飛ぶことがある。
 例えば昨日の一日。
 「何をしたのか」「何を食べたか」「何を見たのか」
 これらを子細に想い出そうすると想い出せない。
 
 僕は緑内障で毎日の点眼が欠かせない。
 しかし、10分前に点眼したのか確信が持てない。
 仕方なく、点眼をしたらカレンダーに印をつけている。

 一昨日、いつもように「百薬の長」で呑み、
 キムちゃん、白石さんとスナック「京子」へ行った。
 何を歌ったかは半分くらい覚えている。
 店を出てキムちゃんと別れてから定かでない。
 気が付いたら、着替えもしないで布団で寝ていた。

 記憶違いも甚だしい。思いこみが酷い。
 何が少年力だ。老人力バンザイ!

 「過去」は存在せず、過去は想起しか出来ない。
 「現在」も認識出来ない。「未来」全く存在しない。
 「時間を哲学する」の著者、中島義道氏はそう書く。
 時間を線的に空間的に捉えようとした
 これまでの「時間概念」を批判する。
 
 分かりもせず、存在しない悠久の時間を妄想する。
 そして人生を儚いと嘆く。それは不幸だと言う。
 「長い」とか「短い」とかの相対化を無意味化している。

 もう僕らは「過去」や「未来」に
 患わされなくてもいいのだと思った。
 その哲学自体が中島氏の妄想に過ぎないとしても。

 とどのつまり「自分」という幻想なのだろう。
 「この私という病」。

 「私が生きている時死は存在せず、
 死が存在する時、私は存在しない。
 ゆえに私と死は無関係である」
 誰の言葉だったか、やはり思い出せない。

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