自分の記憶が疑わしい。
まるで映画「ブレードランナー」みたいだ。
自分の過去の写真や、作品、文章など様々な痕跡。
それらを見ると、そんな過去を持っていると思う。
けれど、それらが「刷り込み」では無いと言う保証はない。
ブレードランナーの「レプリカント(人造人間)」。
彼らは数年の命にも関わらず、
刷り込まれ捏造された過去を「在った」ものと信じている。
彼らと私はどこがどう違うのか?
たまに、いや割合記憶が飛ぶことがある。
例えば昨日の一日。
「何をしたのか」「何を食べたか」「何を見たのか」
これらを子細に想い出そうすると想い出せない。
僕は緑内障で毎日の点眼が欠かせない。
しかし、10分前に点眼したのか確信が持てない。
仕方なく、点眼をしたらカレンダーに印をつけている。
一昨日、いつもように「百薬の長」で呑み、
キムちゃん、白石さんとスナック「京子」へ行った。
何を歌ったかは半分くらい覚えている。
店を出てキムちゃんと別れてから定かでない。
気が付いたら、着替えもしないで布団で寝ていた。
記憶違いも甚だしい。思いこみが酷い。
何が少年力だ。老人力バンザイ!
「過去」は存在せず、過去は想起しか出来ない。
「現在」も認識出来ない。「未来」全く存在しない。
「時間を哲学する」の著者、中島義道氏はそう書く。
時間を線的に空間的に捉えようとした
これまでの「時間概念」を批判する。
分かりもせず、存在しない悠久の時間を妄想する。
そして人生を儚いと嘆く。それは不幸だと言う。
「長い」とか「短い」とかの相対化を無意味化している。
もう僕らは「過去」や「未来」に
患わされなくてもいいのだと思った。
その哲学自体が中島氏の妄想に過ぎないとしても。
とどのつまり「自分」という幻想なのだろう。
「この私という病」。
「私が生きている時死は存在せず、
死が存在する時、私は存在しない。
ゆえに私と死は無関係である」
誰の言葉だったか、やはり思い出せない。
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