セザンヌは絵が下手だった。
僕が言ってるのではない。
セザンヌの親友だった、
作家エミール・ゾラが小説「制作」にそう書いた。
(ゾラは読んでないけど、評論に書いてある)
セザンヌは天才の資質を持ちながら、
それを絵で発揮する才能を持たなかったと。
セザンヌの初期の作品を見ると、
確かに画学生としてみても、あまり上手ではない。
はっきり下手だと言った方がいいくらいだ。
それでも非凡なものも感じさせる。
主題や表現の中に、ある種の過剰さがあるからだ。
妖しげなエロスと、塊のような絵具の厚塗りがそうだ。
20世紀の巨匠、ピカソもマチスも
セザンヌから一番影響を受けたと語っている。
同時代のゴーガンを含め、
セザンヌが美術界に与えた影響は計り知れない。
日本においても岸田劉生や中村幣を始め、その存在は大きい。
美術界だけでなく、現象学の哲学者メルロ・ポンティは
その著書「知覚の現象学」でセザンヌを論じている。
印象派の巨匠モネをこよなく愛する僕も、
やはりセザンヌの絵には脱帽している。
彼が到達した芸術の高さと彼の不器用さと頑固さと不遇、
その落差は、多くの芸術家を勇気づける。
そして彼の信念、意志の強さは、
画家としての資質以上に孤高のものだと感じる。
そして彼の絵の持つ絶妙のバランス感覚。
それはアンバランスと紙一重のバランスだ。
またセザンヌは印象派の中で珍しく、
浮世絵や東洋の美術に関心を払わなかった人物だが、
彼の世界の存在に対する捉え方が、
何処か東洋的のそれと通じるように感じている。
セザンヌが彼にとっての聖なる山
「サント・ヴィクトワール山」を描いた作品を目の前にすると、
そこに東洋の山水画を見る思いがする。
「セザンヌが描こうとしたのは根源の世界である。
だからこそ、彼の作品を前にすると
原初の状態にある自然を見るような気がするのだ」。
メルロ・ポンティ 哲学者
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