2010年2月20日土曜日

聖なる山へ

 セザンヌは絵が下手だった。
 僕が言ってるのではない。
 セザンヌの親友だった、
 作家エミール・ゾラが小説「制作」にそう書いた。
 (ゾラは読んでないけど、評論に書いてある)

 セザンヌは天才の資質を持ちながら、
 それを絵で発揮する才能を持たなかったと。

 セザンヌの初期の作品を見ると、
 確かに画学生としてみても、あまり上手ではない。
 はっきり下手だと言った方がいいくらいだ。
 それでも非凡なものも感じさせる。
 主題や表現の中に、ある種の過剰さがあるからだ。
 妖しげなエロスと、塊のような絵具の厚塗りがそうだ。

 20世紀の巨匠、ピカソもマチスも
 セザンヌから一番影響を受けたと語っている。
 同時代のゴーガンを含め、
 セザンヌが美術界に与えた影響は計り知れない。
 日本においても岸田劉生や中村幣を始め、その存在は大きい。

 美術界だけでなく、現象学の哲学者メルロ・ポンティは
 その著書「知覚の現象学」でセザンヌを論じている。
 
 印象派の巨匠モネをこよなく愛する僕も、
 やはりセザンヌの絵には脱帽している。
 彼が到達した芸術の高さと彼の不器用さと頑固さと不遇、
 その落差は、多くの芸術家を勇気づける。

 そして彼の信念、意志の強さは、
 画家としての資質以上に孤高のものだと感じる。
 そして彼の絵の持つ絶妙のバランス感覚。
 それはアンバランスと紙一重のバランスだ。

 またセザンヌは印象派の中で珍しく、
 浮世絵や東洋の美術に関心を払わなかった人物だが、
 彼の世界の存在に対する捉え方が、
 何処か東洋的のそれと通じるように感じている。

 セザンヌが彼にとっての聖なる山
 「サント・ヴィクトワール山」を描いた作品を目の前にすると、
 そこに東洋の山水画を見る思いがする。

 「セザンヌが描こうとしたのは根源の世界である。
 だからこそ、彼の作品を前にすると
 原初の状態にある自然を見るような気がするのだ」。
 メルロ・ポンティ 哲学者 

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